第7章-2 トーメン時代 西野順治郎 列伝 66東洋棉花(トーメン)入社
話しを進める前に少し横道に逸れますが、この東洋綿花(トーメン)の会社について少し説明しましょう。
1921年(大正10年)三井物産の綿花部門が独立して、綿花と繊維を扱う総合商社となりました。
東洋綿花という社名に「綿花」を使用していますが、その分野がメインの専門商社だったのです。
今ではポリエステル素材に追いやられていますが、昭和14年にポリエステル繊維が発明される前までは天然繊維である綿花が全盛でした。
当時、綿花、すなわち繊維産業で、日本の近代産業の第一ステップ、軽産業の代表的分野で日本経済をリードしました。
ところで、東洋綿花の渉外部の任務は、官庁やバイヤーとの渉外事務を担当する部門でしたが、この間に一度だけ、しかも西野さんにとって最初の貿易事務を担当し、その存在を高めた話を紹介しましょう。
それは当時、姫路商工会議所会頭であった、龍田紡績の龍田社長から香川東京支店長を通じ、姫路動物園にタイから象を含め、熱帯魚を輸入して欲しい、と案件が入りました。
この話を成功させるため、西野さんは人脈を通じてバンコク、ドゥシット動物園長をしていたチャロームさんに連絡して、QUOTATION(いわゆる見積り)を貰いL/Cを開設して32種類の動物、熱帯魚を通関、輸入しました。
この実績は、先にタイからの貿易使節団来日の際のフルアテンドしたケースと同様、タイとの取引に大きな実績となりました。
トーメンは世界中の国との貿易取引を行っていましたが、タイとの取引で西野さんは水を得た魚の如く、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をしました。
入社一年後、西野さんはバンコクへ赴任しますが、その前に当時の日本の国内状況を説明しておきます。
1950年頃、日本は食糧難に直面していて、大量の米や穀物を各国から輸入しなければなりませんでした。
その輸入を担当する貿易商社は、国に代わって代行していたので重要視されていました。
国から指定業者に指定される事は大きな商権となるので、その指名獲得運動にエネルギーを費やしていました。
そのために各社は、通産省や食糧庁に日参して指名獲得運動を展開していました。
そして最終的にタイ米輸入代行商社として、東棉を含む6社(三井、三菱、三菱系2社と東棉、金商又一)が指名されました。
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ここで、1951年(昭和26年)の出来事を羅列しましょう。
3月在バンコク在外事務所(大使館の前身)開設、4月西野さんトーメン入社、9月サンフランシスコ条約調印、10月トーメン、バンコクに出張者派遣、と西野さんに関係する事が起きています。この年は、戦後日本の海外進出の出発年となりました。
翌年4月、サンフランシスコ条約が発効、11月在タイ日本大使館が開設されました。この頃は、日本が海外雄飛を求めて飛び立つ時代でした。
(次回号へ続く)