第3章-33 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 49 サーイユット カートポン大将 その2
サーイユット大将の著書より
当時私は、第一陸部隊第29番隊所属、第12番陸軍省第一援護部隊の少佐で、バンコクのセーンセープ運河からバーンスー運河までの守備任務を任されました。
その後カセサート大学の要塞に移動し、1943年日本の司令部部隊との会議に参加することになりました。
(著者注:この会議の席上、サーイユット大将は西野さんの存在を認識していた)
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1938年から彼はタイに来て、当時21歳の彼はワシラーウット学校でタイ語を学び、タマサート大学の法学部で勉強していました。1941年9月に日本軍がタイへ侵略する前、彼は在チェンマイ日本領事館に副領事として2年間勤め、その後在タイ日本国大使館、山本熊一大使の秘書官兼通訳を担当。(著者注:前任者の坪上 貞二大使の秘書官兼通訳をも担当)
彼(西野)は、タイ政府と日本政府の関係が悪化し始めたのは、「日本政府が日本軍にフランス領インドシナのベトナム、ラオス、ミャンマーを征服するよう命令が下され、侵略した1945年3月頃だ」と記憶している、と述べていました。同時期、タイでは自由タイ運動が日本軍に反発し始めていましたが、11万人の兵隊を持つ大日本帝国陸軍の中村明人中将は、時の政府を直接管理下に置くべきではないと反対していました。
また、日本の兵隊がトンブリー県で自由タイ運動のメンバーを逮捕した時、中村中将が山本大使に相談した所、「自由タイは戦局を左右するものではない。タイ政府はまだ同盟で、我々に食料提供や便宜を図ってくれている」と云われた、とのこと。また、タイ政府は当時国家年間予算が6億バーツしかなかったところ、日本政府に約16億バーツ貸していた、とも述べています。
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もう一つの出来事に、西野さんが元タイ財務省で、当時もっとも権力を持っていたプリーディー・パノンヨンの自宅を訪ねることがありました。(著者注:プリーディー・パノンヨン氏は時の摂政)
ラーマ8世がまだスイスに滞在中で、日本政府はプリーディーさんが自由タイのリーダーであることを知っていた状況でした。西野さんの任務は、自由タイがタイ政府の「客」である日本軍を攻撃しないと確約を得ることでした。
西野さんはプリーディーさんから日本政府はタイを侵略するかと問い詰められましたが、西野さんは否定し、自由タイが日本軍を攻撃しないという言質を取って、大使館に帰りました。
また、彼(西野)は、当時の日本外務省は、日本軍の戦闘機が年間6千機しか造れないのに対し、米国軍は年間6万機を造っているから、どう考えても勝ち目はないという見方もあり、天皇陛下も開戦したくなかったが、仕方なかった、と述べていました。
(著者コメント:西野さんはタイ人に対して連合軍に物量面で負けることを話していた)
(次回号へ続く)