第9章-5 国営紡績工場建設 西野順治郎 列伝74回 現地に足を運ぶ
この記事を書くに当たり、現地に行って現状を調べて見ました。
工場があった場所は、ピサヌロークの中心から東側に約2キロ位離れた所で住宅地域にあるタイ国軍の遊休地でした。
その場所の正面の看板には、第34開発部隊と表示されています。
そして、その部隊は第3開発師団の所属となっており、管理者は国軍最高司令部と書かれています。つまり、紡績工場があった所は、国軍が管理している遊休地になっていました。
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当時の様子を聞くために近所の人を探した所、かつて紡績工場で働いていたという60歳位の老婆商人に出会いました。その人に工場の事を尋ねると、昔を思い出して懐かしそうな表情をして、また嬉しそうに語ってくれました。
当時、この田舎に近代的紡績工場ができるという事で、大騒ぎになったとの事。
また、働く所が少ない頃だったので、多くの応募者が殺到した、との事。
当時の軍隊の国軍司令官はチャワリット氏で、後にタイの首相に就任した人で、彼に感謝していました。話の中でチャワリット、チャワリット、と何度も名前を連発していたのが印象的でした。
なお、当時まだ従業員のための通勤バスが存在しなかったため、大型トラックを改造して通勤バスとしています。
現在この土地は、利用されておらず遊休地となっており、樹木が生い茂った状態で、昔の面影は微塵(みじん)もありません。まさに、夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡、ですね。
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終わりに
このプロジェクトの成功により、西野さんは本社内で「タイに大物が存在する」と言われるようになり不動の地位を固めたようです。
この国営紡績工場建設と「東レ」の2本のプロジェクトを同時進行しましたが、「東レ」は取締役総務部長職も兼ねていたのでこちらに集中しました。
よって、国営紡績工場建設には目が届きませんでしたが、優秀な部下に恵まれ成功裡に立ち上げました。
西野さんにとって、自分の持っている実力を最大限に発揮できたプロジェクトだったでしょう。
なお、次回からこのプロジェクトと前後して立ち上げた「東レ」の工場建設について紹介しましょう。
(次回号へ続く)
西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長でした¹。1917年8月9日に生まれ、2001年3月5日に亡くなられました¹。以上の情報はWikipediaに掲載されている情報です¹。
¹: [Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E)
ソース: Bing との会話 2023/6/27
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(4) 日タイの親善に尽くした功労者、西野順治郎列伝 ① | タイ バンコク タイ自由ランド. https://jiyuland5.com/%e8%a5%bf%e9%87%8e%e9%a0%86%e6%b2%bb%e9%83%8e%e3%80%80%e5%88%97%e4%bc%9d-%e2%91%a0/.