第6章-1 商工省時代 西野順治郎 列伝 60

西野さんが出向していた商工省は現在の経済産業省(フリーサイトより)

昭和22年8月、6ヵ月の研修を終え商工省調査局第一課に配属となりました。
なお、辞令は「商工事務官 商工省へ出向ヲ命ズ 渉外部外課勤務」でした。
しかし、本人はこの辞令をどの程度予測していたでしょうか。
西野さんは、この辞令を見て驚き、落胆したことでしょう。
しかし、役所を首にならなくて良かったですね、が著者の感想です。
現在なら、出向は3年間位で戻れる制度ですが、当時は戻れる見込みのない「片道切符」だったのです。
また、外務省の職場では、今も昔も「学閥、派閥、閨閥(けいばつ)が幅を利かしている組織です。
西野さんは、この三つのどれにも当てはまらない人だったので、外務省に残れなかったのでしょう。外務省という所は、「華麗なる一族」の世界ですからね。
さらに、考えられる事として、西野さんは高等文官試験合格者でなく、留学生試験合格者だったからでしょう。
ところでこの調査局は、市場調査、統計資料作成などを行う部局で、直接事業を行う部局と別世界の部局でした。
よって、西野さんにとっては閑職と思ったことでしょう。

当時30歳で、バリバリと仕事ができる能力を持っていた時ですから。
よって、この調査部門は物足りなく不満だったのでしょう。
人事担当者は、良く言えば将来を見据えいずれ外国との往来が活発になった時に活躍してもらうことで、今はその時期ではないとして、待機、休養させて置いたのでしょう。
時間を持て余した西野さんは、暇を見て本「自由シャムの横顔」(舟形書院、1048年)を書いています。
良きタイの思い出を書き留めたかったのでしょう。この話は別に紹介します。
また、毎日混雑した電車に乗せられ不満の状態で、そんな時タイでの生活を思い出し、いわゆる「望郷の念」に駆られていたのでしょう。
この本によって、当時のタイの様子を知ることができます。
現在、この本を入手することができませんが、日本の国会図書館に秘蔵されています。
また、この調査局時代に、神奈川大学で非常勤講師を務めています(商業英語、2年間)。
大学からの要請ですが、このバイトは薄給の西野さんにとって余禄となり、奥さんに感謝された事でしょう。
当時の役人の給料は、家族を養うのに大変だった、と想像します。
× ×
その後、商工省は貿易庁を合併して、通商産業省(1949年5月)となり、通商局市場課勤務となりました。言わずもがな、現在は経済産業省。
この間、日本は占領軍によって貿易再開を認められることになり、1949年7月、タイから商業省外国貿易局長ルアン・タウィル(LUANG THAWIL)を団長とする貿易使節団が来日し、占領軍との間に清算方式による貿易協定(輸出入3,000万米ドル)を締結しました。
西野さんは、通産省を代表してこの使節団滞在中フルアテンドして、その任務達成をサポートしました。
この時、フルアテンドしたことにより、再びタイに戻れるというきっかけになった事でしょう。

(次回号へ続く)

 

2023年1月20日 タイ自由ランド掲載

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