第5章-2 外務省還帰 西野順治郎 列伝 57 外務省登庁
タイからの引き上げで西野さん達のグループが乗船したのは、第一陣でした。
なお、第二陣、第三陣と続き、第三陣が1946年11月23日長崎の佐世保に入港し、最後のタイからの帰還組となりました。
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帰国して翌8月外務省へ帰国報告のため単身で上京し、奥さんの実家である練馬の金子家に居候しました。
当時東京は、戦時中に何回もの爆撃を受けて焦土化していました。
外務省も爆弾で潰(つぶ)され、芝田村町(注:港区新橋で現在この地名はない)の日産館に移っていました。
2階の人事課長室に入ると、寺岡洪平課長より「君は今日から秘書官室に入ってくれ」と言われたので、直ちに3階の秘書官室に行きました。
扉を開くと奥に座っていた西山 昭大臣秘書官(後にスイス、インドネシア大使)は「よう、待っていたぞ、君の席はそこだ」と言って、前の空いた机を指差して歓迎しました。
こうして、西野さんはその日から寺崎太郎外務次官秘書官として勤務することになりました。
ちなみに、寺崎次官は戦前外務省アメリカ局長の時、ワシントンにいた弟、英成一等書記官との間で、姪マリコの名を暗号に使い、日米戦争回避のための電報を往復したことで有名です。
寺崎次官は、東条内閣が成立するや、これに仕えることを好まず辞表を出して野に下っていましたが、吉田茂内閣になり請われて外務省に復帰したのです。
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西野さんが一時的にせよ仕(つか)えた寺崎太郎外務次官は、どんな人物だったのでしょうか?
寺崎太郎氏は、1939年後半にルーマニア代理公使から帰朝を命ぜられ、帰朝後は通商局内の幹事役として地味な仕事をしていました。そして、1940年アメリカ局長に就任しています。この時わずか40歳でした。今ではあり得ない抜てき人事ですね。
さらに驚くことに、前アメリカ局長、吉沢清治郎氏は駐カナダ公使に左遷させられています。
大正11年(1922年)の東大仏法科の卒業で外務省としては異例の抜擢というべきで、その闘争心に燃え信念に生きる強い性格が、当時の外交刷新に要求された所から抜擢されたのでしょう。
なんとなく、西野さんの性格と相通じるものがありますね。
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外務大臣は吉田首相兼務で、秘書官室は大臣室と次官室の間にありました。西野さんは、一時的にせよ吉田首相と直接会っていますね。
それにしても、出勤初日に外務次官の秘書官就任ですから、普通の人事ではありませんね。ここでは、西野さんの反骨精神が生かされ、幸運の女神に出会ったのかもしれません。
(次回号へ続く)