西野順治郎列伝 104 第12章- 1 – 10 人見 宏大使と西野順治郎さん
先に「歴代大使と西野順治郎さん」のタイトルで書きましたが、今回はその中で一番親しく交流された人見宏大使について紹介します。
人見大使は、1976年2月に南ベトナム大使からタイ大使に着任しています。
当時、西野さんは、日本人会の会長として、全盛を極めていた時でした。
この頃、タマサート大学で「血の水曜日事件」が発生するなど、学生運動が活発化しており、さらに日本・タイの関係が悪化していました。
そのため、日本とタイの貿易合同委員会が頻繁に行われ、様々な対策が話し合われていました。
その結果、河本通産大臣がタイを訪問し、貿易収支改善への協力を約束するまでの事態に至りました。
このような状況下で、外務省本省からタイ大使館に対応を誤らないよう指示が出され、人見大使は困惑していました。
人見大使は、西野さんに期待を託し、日本側の対応を進めました。
当時、西野さんは日本人会の会長であると同時に、JCC(商工会議所)の理事で、筆頭無担当理事としてタイ担当者と交渉を行いました。
人見大使が帰朝した1980年頃には、貿易不均衡問題が沈静化していきます。
帰朝の挨拶文を紹介する前に、二人のエピソードを紹介します。
それは二人がタニアの歓楽街を共に散策していたという事実です。
どちらから言い出したのかは不明ですが、互いに意気投合しての結果でしょう。
この話は、日本料理店「花屋」の三代目綿貫孝(73歳)さんから伺ったものです。
なお、綿貫さんについては、「西野列伝」の第33回に掲載しています。
今では、公的な立人が堂々と歓楽街を歩く事は、マスコミの目が厳しく、難しいことかもしれません。
人見大使は、4年間の勤務を終え、1980年1月に帰朝しています。
一方、西野さんは前年に日本人会長を退き、副会長に留まっています。
ここで、日本人会会報「クルンテープ」1980年1月号に掲載された人見大使の挨拶文を紹介します。
その内容からは、奮闘した四年間に対する満足感が伝わってきます。
× × × ×
在タイ在留邦人の皆さんへ
駐タイ特命全権大使 人見 宏
私は今般帰朝の発令を受け、来る1月中旬に離任することになりました。
タイに勤務すること4年弱になりますが、ここにクルンテープ誌を借りまして在留邦人の皆様方へのお別れの挨拶をいたしたいと思います。
(次回号へ続く)
2024年11月20日 タイ自由ランド掲載
[word_balloon id="2″ size="M" position="L" name_position="under_avatar" radius="true" balloon="talk" balloon_shadow="true"]西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長です¹。西野さんは、1917年8月9日に大阪府岸和田市で生まれ、横浜専門学校(現・神奈川大学)で学び、外務省留学生試験に合格し、タマサート大学法学部に国費で留学しました¹。西野さんは、タイで1969年に発表された小説『Khu Kam(運命の人)』を、『メナムの残照』の題で翻訳しました¹。²¹: [Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E)
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.[/word_balloon]