【海を越える夢 ―山田長政列伝】第1話 家を離れる決意
駿河の国、湊村。静岡の東部に位置するこの小さな漁村で、山田長政、本名を村上武長とする若者が生まれ育った。幼い頃から、長政の目は常に海の彼方を見つめていた。両親は真面目な農民で、厳しいしつけのもと育てられたが、長政の心の奥底には常に自由を求める冒険心が燃え続けていた。
ある夏の朝、長政は海岸に立ち、遠くに広がる水平線を見つめていた。潮風が彼の黒髪をなびかせる中、彼は独り言を呟いた。
「あっちの向こうに、おら、行きてぇなぁ…」
その時、背後から声がかかった。
「おい、武長!またここでぼやぼやしてるんか?畑の仕事はどうした?」
振り返ると、長政の父、村上源右衛門の厳しい表情が目に入った。
「とっつぁん、すまねぇ。今すぐ行くだ」
長政は慌てて畑に向かおうとしたが、父に腕をつかまれた。
「待て。お前、また海ばっか見てたんだろう?」
長政は黙って俯いた。源右衛門はため息をつき、息子の肩に手を置いた。
「武長、おめぇはこの村の跡取りだ。いつまでも夢みてぇなこと考えてちゃいかん。現実を見ろ」
「だけど、とっつぁん。おらぁ…」
「もういい。畑に行け」
長政は重い足取りで畑に向かった。しかし、彼の心は既に遠い海の向こうへと飛んでいた。
その夜、長政は家の縁側に腰を下ろし、夜空を見上げていた。母の郁が隣に座り、優しく語りかけた。
「武長、どうしたんだい?なんだか元気ねぇじゃねぇか」
「かっかぁ…おらぁ、ここじゃ息ができねぇんだ」
郁は黙って息子の言葉に耳を傾けた。
「海の向こうには、すげぇ世界があるって聞いたことがある。おらぁ、その世界を見てぇんだ。自分の力で何かを成し遂げてぇんだ」
郁は長政の頭をそっと撫でた。
「武長、お前の気持ちはよぉく分かる。だけどな、ここを離れちまったら、もう二度と戻って来れねぇかもしれねぇぞ」
長政は黙ったまま、母の言葉を受け止めた。
数日後、長政は決意を固めた。夜中に、最小限の荷物をまとめ、家を後にする準備をした。両親の寝室の前で立ち止まり、小さな声で別れの言葉を告げた。
「とっつぁん、かっかぁ。すまねぇ。おらぁ行ってくる。きっと立派になって戻ってくるからよ」
そして、長政は静かに家を出た。暗闇の中、海岸へと向かう彼の背中には、決意の色が濃く染まっていた。
翌朝、長政がいないことに気づいた両親は大騒ぎとなった。
「武長!武長はどこだ?」源右衛門が家中を探し回る。
郁は台所で長政の置き手紙を見つけた。
「あぁ…やっぱり行っちまったのか…」
源右衛門は手紙を受け取り、声に出して読んだ。
「とっつぁん、かっかぁ。おらぁ、自分の道を見つけに行く。心配すんな。必ず成功して戻ってくっから。そん時は、誇れる息子になってるはずだ。ごめんな、武長」
源右衛門は手紙を握りしめ、怒りと悲しみが入り混じった表情を浮かべた。
「バカ息子め…」
郁は夫の腕に手を置き、静かに言った。
「源右衛門、あの子の気持ちも分かってやってくれ。あの子にゃ、あの子の道があるんだよ」
源右衛門は黙ったまま、窓の外を見つめた。そこには、長政が毎日眺めていた海が広がっていた。
一方、長政は既に村を遠く離れ、未知の世界への第一歩を踏み出していた。彼は港町に向かい、そこで船乗りとして働くことを決意した。
港に着くと、長政は大きな商船を見つけ、船長に近づいた。
「旦那、おらを船に乗せてくんねぇかい?どんな仕事でもやるだ」
船長は長政を上から下まで眺め、笑った。
「おっと、若いの。お前、海の仕事なんてやったことあんのか?」
「ねぇっす。だけど、おらぁ何でも覚えるだ。必ず役に立つから」
長政の目に宿る決意を見て、船長は考え込んだ。
「よし、分かった。試しに乗せてやろう。だが、甘くねぇぞ。覚悟はいいな?」
「ありがてぇ!必ず期待に応えるだ!」
こうして長政は、未知の世界への扉を開いた。彼の心には一つの目標が宿っていた。自分の力で未来を切り拓き、名を上げること。そして、自分の手で歴史を刻むこと。
船上での生活は、長政が想像していた以上に過酷だった。慣れない作業、荒れる海、そして時には危険な航海。しかし、彼はそのすべてを「挑戦」として受け止めた。
ある日、嵐の中での航海中、長政は甲板で必死に作業をしていた。
「おい、若いの!そこの綱をしっかり結べ!」
船長の声が風に乗って聞こえる。
「はいよ!」
長政は全身の力を振り絞って綱を引っ張った。波にさらわれそうになりながらも、彼は決して諦めなかった。
その姿を見た船長は、長政に近づいてきた。
「お前、なかなかやるじゃねぇか。名前はなんだ?」
「はい!村上武長っす!」
「村上か…よし、これからはお前を長政と呼ぶ。山田長政だ。気に入らねぇか?」
長政は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。
「ありがてぇっす!長政…いい名前だ。必ずこの名前に恥じねぇように生きるだ!」
こうして、村上武長は山田長政として新たな人生を歩み始めた。彼の冒険はまだ始まったばかりだった。
航海を重ねるごとに、長政は様々な国の言葉や文化を学んでいった。彼は特にタイ語の習得に力を入れ、短期間で驚くほどの上達を見せた。
ある日、タイに寄港した際、長政は現地の商人とタイ語で会話を交わしていた。それを見ていた船長は感心した様子で長政に声をかけた。
「おい、長政。お前、タイ語上手くなったじゃねぇか」
「ありがてぇっす。おらぁ、言葉を覚えるのが好きなんですよ」
「そうか…お前、次の航海からは通訳として働いてみねぇか?」
長政の目が輝いた。
「マジすか!?ありがてぇっす、船長!」
こうして長政は、単なる船乗りから通訳へと立場を変えていった。彼の語学力と交渉術は、やがて商談の場でも重宝されるようになっていった。
ある夜、長政は甲板に立ち、故郷を思い出していた。
「とっつぁん、かっかぁ…おらぁ、ちょっとずつだけど、前に進んでるだ。きっといつか、おめぇらが誇れる息子になってみせる」
星空の下、長政の決意は固く、その目は未来を見据えていた。彼の冒険は、まだ始まったばかりだった。これから彼が経験する数々の試練と栄光。そのすべてが、やがて「山田長政」という名を歴史に刻むことになるのだ。
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