西野順治郎列伝 98 第12章- 1 – 4 西野さんと日本人会理事 4
日本人会長就任の頃関わった理事
1961年から1967年まで会長を務めた大峡(おおば)一男氏は,本社命により翌68年本帰国しています。(当時61歳)
1968年西野さんが理事に就任したが、その時点で大峡氏は既に帰国しており理事として同席する事はありませんでした。
大峡氏に代わって会長となった山本一(川崎汽船)は3年間会長を務め、その後副会長に就任し西野会長をサポートしました。
また、西野会長が理事として招いたアマリングループの松田嘉久氏については後日詳しく紹介します。
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ここで、西野さんと事務局について触れて見ましょう。
西野さんが会長に就任した時、ベテランの南正一氏(当時45歳)が事務局長として西野さんをサポートしています。
西野さんは、南さんに大変お世話になったことでしょう。
そして西野さんが会長を勇退する1カ月前、南さんは定年(55)で退職しています。
同年の退任時には、新井定修氏が事務局長として就任し、以後10年間、日本人会活動の全盛期を迎えることになります。
著者の個人的な経験に触れますと、新井氏が事務局長3年目の1984年に来タイし、その際に日本人会入会のため、日本人会に行って新井氏と会っています。
新井氏は、西野さんのことを「辣腕(らつわん)を振るって、会長職を維持していた」と話してくれています。
この言葉から、西野さんは「飛ぶ鳥を落とす勢い」で会長職を務めたことが伺えます。
更に、会長職8年間を退任しても副会長として3年間残っていたことから、その影響力の大きさが伺えます。
これらの辣腕(らつわん)を振るっての長期の任期に、会長候補待機組の理事が不満を抱いた事は言うまでもありません。
理事退任後、名誉会員に推されています。
最後に西野さんが、華々(はなばな)しい活躍が出来たのも、「泰日協会」の副会長職に就任していたからでしょう。
なぜなら、バンコク日本人学校のオーナーは「泰日協会」で、日本側のトップの地位に君臨していたからです。
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最後に、落語の真打よろしく川満富子さんにも言及しましょう。
西野さんが華やかな表道を歩いている間、縁の下の力で力強く支えたのが川満さんなのです。
偶然にも、西野さんが日本人理事に就任した年に、川満さんは22歳という若さで日本人会の事務局員として加わっています。以来55歳の定年まで、33年間日本人会活動に情熱を注いできました。
よって、同氏の活躍については次回より紹介します。
(次回号へ続く)
2024年8月20日 タイ自由ランド掲載
[word_balloon id="2″ size="M" position="L" name_position="under_avatar" radius="true" balloon="talk" balloon_shadow="true"]西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長です¹。西野さんは、1917年8月9日に大阪府岸和田市で生まれ、横浜専門学校(現・神奈川大学)で学び、外務省留学生試験に合格し、タマサート大学法学部に国費で留学しました¹。西野さんは、タイで1969年に発表された小説『Khu Kam(運命の人)』を、『メナムの残照』の題で翻訳しました¹。²¹: [Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E)
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.[/word_balloon]