西野順治郎 列伝 84 生前の足跡第11章- 4 田中角栄首相のタイ訪問 (1)
初めに
西野順治郎列伝の中で、田中角栄首相のタイ訪問は歴史的に記録された出来事です。
その混乱の中で、西野さんが対応できた事は、元大使館員として身に余る光栄と感じた事でしょう。
これらの出来事について、4回に分けて当時の様子を振り返ってみましょう。
西野さんは、田中首相のタイ訪問について、多くの記述を残していますので、その話から始めましょう。
何しろ、一国の総理大臣が訪問先で多くのデモ隊で迎えられる、という前代未聞の出来事でしたので、さすがの西野さんも驚いたことでしょう。
その様子をまず、西野さんの著書「日タイ四百年史」の中から紹介しましょう。
× × × ×
田中首相の訪タイと対日感情
1973年10月の「死の日曜日」の興奮がまだ冷めない翌年74年1月、日本の田中角栄首相はアセアン各国訪問の途につき、9日から11日までタイを訪問した。
9日到着時には約300名の学生が「田中カエレ」のプラカードを持って空港入口に待ち構えており、宿舎エラワン・ホテルの前には5000名の学生を中心としたデモ隊が集まり路上で同首相のわら人形を焼き払うという事件も起こったが、首相一行の車には何ら被害を加えることがなかったので無事ホテルに入ることができた。
しかし、それだけでデモ隊は影をひそめ、田中首相は訪タイ行事を完全に予定通りこなして離タイした。
到着した9日の夜にはサンヤー首相が公邸における晩餐会に招待してその席上、国王からの勲一等白象勲章を田中首相に贈ると共に、既述の通り日本人学校を認可する旨伝えた。
また同行した首相令嬢真紀子さんが、チャリティー寄付のためタイ赤十字を訪問して微笑んでいる写真がタイ字誌に掲載された。
そして訪タイ最後の日にはNSCT(著者注:タイ全国学生会議)代表らとも会見したが、その冒頭において学生側は「われわれは暴力を持って一国の首相を妨害する意図はないが、その指示が徹底せず首相の到着時には一部の過激学生がデモ行為に出た事は遺憾である」と言って謝った。
しかし、その会談の席上で貿易の不均衡はもとより、進出日系企業ついて厳しい詰問がなされた。この時、日本の内地では田中首相到着時のデモの記事や学生の激しい詰問の内容などが大々的に伝えられ、微笑ましい面の記事は消極的に扱われたせいか、この時こそ反日運動が最高潮に達したという強い印象を受けている。
しかし、この田中首相訪問の記事を読まれる読者は不思議なタイ人の性格に気付かれるのではないだろうか。
タイ人の外交の巧妙な事は過去の史実においても繰り返したところであるが、彼らは一様に強い愛国心とプライドがあることを忘れてはならない。
(次回号へ続く)
[word_balloon id="2″ size="M" position="L" name_position="under_avatar" radius="true" balloon="talk" balloon_shadow="true"]西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長です¹。西野さんは、1917年8月9日に大阪府岸和田市で生まれ、横浜専門学校(現・神奈川大学)で学び、外務省留学生試験に合格し、タマサート大学法学部に国費で留学しました¹。西野さんは、タイで1969年に発表された小説『Khu Kam(運命の人)』を、『メナムの残照』の題で翻訳しました¹。²¹: [Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E)
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.[/word_balloon]