第8章-3 ラオス進出 西野順治郎 列伝 69 ビエンチャン出張所の認可

 

ラオスのビエンチャンにある凱旋門(著者撮影)

この時、西野さんは支店長代理に任命され、輸出担当以外に支店長の補佐役も務めました。
1959年に内地の穀肥油量課長の席が開くので、帰国しないかとの話が本社から来ましたが、その時の宇敷正章支店長(後に取締役)に請われてそのままタイに留まりました。
これが西野さんをして、タイに長期滞在せしめる契機となったのです。
これより先1955年7月(タイ出張3年目、38歳)に、西野さんは日本政府による官民合同ミッションの一員としてラオスを訪問しました。

同国は1949年に独立してから米国政府はUSOM(United State Over Mission)
を通じてその経済発展を援助して来ましたが、米国の民間人がこれに従わなかったので、在タイ米国大使館より日本大使館に「日本人の民間経済人を派遣してほしい」との要請がありました。
これに対し、現地在タイ日本大使館は青木盛夫参事官(後にジュネーブ国際機関大使)を団長とし、武田敬商務書記官と民間から西野さんの他に第一物産(後の三井物産)の駒井長一郎支店長、東西貿易(後の三菱商事)の斉藤永七支店長、及びパシフィック&オリエント社の小谷亀太郎社長の4人がラオスの首都ビエンチャンを始め王都アンプラパン、スワンナゲートを訪れました。
当時のラオスは非常に開発が遅れており、ホテルらしいホテルもなかったので、一行はできたばかりのUSOM職員の宿舎に泊めてもらいました。
USOMの職員でも、空港周辺にテントを張りランプの灯で露営している人もいました。

一行は、ラオスの官民から大歓迎を受け同国への進出を要請されました。
× × × × そこで西野さんは、バンコクに戻ると直ちに本社の許可を得て、単独でラオスに引き返して当初は「連華」という得意先の店の2階で店員の部屋に泊めてもらい、出張所設置の準備を開始しました。
そして、3ヵ月の1955年10月にラオス政府から正式にビエンチャン出張所が認可されました。この行動、電光石火と言わずして、なんと表現しましょうか。西野さんがすごいのは、先見力、判断力、そして行動力ですね。
初代代表として本社から三田広仲氏が着任しバンコク支店長の管下に置かれました。
この頃、ラオスではあらゆる物質が枯渇していたので、USOM援助資金の輸入外貨枠をもらえばどんな物品を持ち込んでもすべて十分な利益を確保することができました。
その結果、ビエンチャン出張所は優秀な業績を上げ社長表彰を受けました。
× × × ×
このことに気がついた他商社にも、ラオスへの進出の動きが見え始めました。
この動きに対して、在タイ日本大使館は「狭い市場で競争の末共倒れになる」ことを懸念して行政指導に乗り出しました。
その結果、東棉だけは先発ということで単独で存続を認められましたが、後発の14商社は「日寮貿易株式会社」(後の三井物産)が、1社でその経営を引き受けることになりました。ここでも、西野さんの会社は1人勝ちしてしまいました。

(次回号へ続く)

 2023年5月5日 タイ自由ランド掲載

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