第8章-1 タイ駐在 西野順治郎 列伝 67 駐在員同士が郵便局で顔を合わせる
1951年に日本政府の在外事務所(大使館設置前の事務所)の設置が認められると同時に、商社の派遣員の海外駐在も認められるようになり、バンコクにも既に数社の派遣員が来ていました。
東棉も繊維部門出身の管輝雄氏(戦時中バンコク支店勤務)が、6ヵ月前から駐在していましたが、西野さんが赴任すると交代で帰国しました。
以上のような貿易再開の機運の中、1952年(昭和27年)3月、西野さんは(35歳)タイ駐在員として長期出張を命じられました。
この時、バンコクで生まれた長女清美さんは、お茶の水大学付属小学校一年生になっていたので、家族を残して単身赴任の身でした。
当時はもちろん現在も駐在の際、子弟の教育問題があり単身赴任、家族帯同の選択に迫られていました。
入社後ちょうど1年にしてバンコク赴任、時代の流れに乗って幸運に恵まれていますね。
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なおバンコクへは、当時日本の航空会社がないので、KLMのプロペラ機で羽田を立ち香港経由でドンムアン空港へ着いています。ちなみに、日本航空が初めて国際線を飛んだのは、1954年(昭和29年)2月でホノルル行です。
落ち着き先は、スリウォン通りにあったメトロポール・ホテルで、事務所兼宿舎としました。
このホテルは、現在のモンティエンホテルのある所で、当時は民家を改造した作りで約10室程度の規模でした。
昭和27年4月西野さんは長期滞在として赴任しましたが、その時既に他の商社の駐在員も2~3名いました。(注:ニチメン、第一物産)
その頃は、どこも一社一名の駐在員しかいなかったので、皆親しく交際したものの、所詮はコンペティターなので商売獲得にしのぎを削っていました。
当時テレックス(注:電話回線で送信相手を呼び出しテレタイプで送信する方法)やファックスのない時代で、電報だけが唯一の通信手段でした。
毎日各営業部から出された電報は夜届くので、翌朝それを持って得意先を訪ねて回り、夕方ホテルに戻って夕食後、昼の交渉結果の電報を作成し、それを中央郵便局(今のニューロード)に出しに行きますが、日本からの駐在員が多いため帰りは大抵深夜となりました。
ちなみに、この時日本食堂の「花屋」にて食事を取ったことは、既に紹介済です。
このような日課が連日繰り返されました。
このようなパターンは、各社駐在員とも同様で毎晩郵便局の窓口で顔を合わせました。
電報の語数を勘定している間に覗きこめば、他社の発電を盗読することが出来ました。そこで皆自社の暗号を使用するようになりました。
これに対して、内地の営業部からは「なぜこんな簡単な電報を平文でよこさないのだ」と詰問される始末でした。
(次回号へ続く)