第3章-10 チェンマイ チェンマイと旧日本軍 西野順治郎列伝㉕

チェンマイで印刷されたルピー(インド紙幣):著者撮影
初めに西野さんの伝記を執筆していますが、ある時お孫さんに当たる西野輝泰さんから次の通りメールが送られて来ました。 「昔チェンマイにある歴史記念館か博物館のようなところへ、一緒に行った記憶があるのですが、そこに設立者の一人として祖父の名前が入っていたことを覚えています」と。 この話を聞いて、もっと西野さんが関係したチェンマイ、特に日本軍との関わりを中心として書いてみたいという衝動に駆られました。 しかし結果的に、その事実を確かめることはできませんでした。 ここで、西野さんとチェンマイの思い出について次の二点を記して見ましょう。 チェンマイは、西野さんの忘れられない場所の一つで、赴任から1年後に光江さんと結婚し約8ヵ月間新婚生活を過ごした、という思い出の場所でもあります。このことについては、追って紹介します。 また既に紹介した通り、チェンマイ勤務で思い出深い話として、既に述べた通り昭和17年3月加藤 隼戦闘隊の来チェンマイでしょう。 加藤隊長と二人で写した写真があるとの事ですが、現物を入手できませんでした。

旧日本軍のチェンマイ、クンユアム駐留

開戦後、日泰攻守同盟により日本軍がチェンマイに駐屯して来ました。 日本軍が駐屯した主な目的は、ビルマの侵攻に備えて道路の整備を行うことでした。

道路建設

チェンマイを起点として、メーホンソーへの北回りルートでクンユアム行きと、チェンマイから西に進みクンユアム行くルートの二本のルート建設を進めました。 さらに、クンユアムから国境を超えてビルマへの進出ルート作りを進めた、と書かれています。 しかし、この道路が日本軍退却の「白骨道路」になったのです、 幸運にも、侵攻のための道路整備が撤退のルートに役立ちました。

地元の協力と生活

日本軍は、メーホーソン県知事に対して食料の提供や建設作業員の提供を要請しました。 なお、この工事は日本軍が当時のピブン首相に協力を依頼し、同首相はチェンマイ、メーホーンソンの両知事に便宜を図るよう指示し、それによって末端の郡役所、村役所に指示が届いて、現地タイ人の協力が得られました。 具体的には、北部タイの各県から作業員が動員され、賃金が支払われました。 駐留部隊の生活ですが、現地の家に分散して住み、家族同様の生活をしていました。 当時の日本との連絡方法は飛行機による定期便がありました。 クンユアムにある「日タイ友好記念館」(注:この記念館の説明は後ほど)の南側に1キロメートル程度の滑走路跡地があり、軍隊が物資輸送や通信手段として利用していました。

(次回へ続く)

   

2021年8月5日 タイ自由ランド掲載

 
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