タイに貨物船で来て53年!現地採用で10年以上働き、50歳で独立し、かつぎ屋、民泊経営

 

同志社大を出て、貿易会社に就職した岡本は、雑貨やおもちゃなどを海外に送る仕事についていた。世界をまたにかけている会社で、香港にも行かせてもらった。

仕事に没頭して10年以上がたったころ、自分でも商売をやってみたいという思いが募り、ある程度、たまったお金で会社を辞め、貨物船に乗り込んだ。53年ほど前のことだ。

途中、台湾で3週間停泊して、ようやくバンコクに着いたのは2ヵ月のちだった。

そのころから中継地点だったバンコクで、何か事業ができないかと、町を4日間歩き回った。宿泊は中華系の大旅社で、できるだけお金をかけずに過ごした。

そうするうちに、レストラン「花屋」を見つけ、その日本人オーナーと話しをすることができた。ニューロードにあり、そのまわりは当時は結構、発展していた。

そのオーナーの知り合いで、日本人を探している人がいたので、そのナイトクラブで店員として働くことができた。日本人向けの売春の店だった。当時はすでに日本からのツアーもあったころだ。

その後、転職し、大手自動車のHONDAで働くことになった。サムローンにオフィスがあり、経理で10年働いた。いわゆる、今でいう現地採用だが、もちろん、日本から来る駐在員とは天と地の差ほどの給料の違いはあった。

そして、早くに、中華系のタイ人女性と結婚した。華僑の娘で、仕事は助産婦をしていた。

給料はすべて嫁に渡し、嫁はそのころから、不動産の週刊紙などを見て、小さな土地でこずかいで買えるものがあれば、それを買ったりしていた。

そうやって、10年ほどたち、銀座にある貿易会社の社長さんが「駐在員で迎えてくれる」というので、転職することにした。もちろん、駐在員の給料は段違いによかった。

しかし、もともと、タイに来たときから独立志向は強かったので、結局、その駐在員も辞めて独立することにした。

ちょうど、50歳のころだ。

最初は、材木の製材などを手がけ、また、経験のあった、置屋の経営にも乗り出した。今の伊勢丹のあるところは昔、大丸があって、その後ろにバラックがあった。そこで、ツアーバスを何台も停めて営業することができた。30~40年前で、ちょうど、日本からの売春ツアーも花盛りのころだ。

貯めたお金は嫁に預け、不動産などで回していた。それについてはまったく関心はなかった。

そのあと、日本とを行き来して、バンコクからは雑貨などを持って行って売り、大阪からは生鮮の魚介などを持って来て、日本料理店などに卸した。かつぎ屋というやつだ。

バンコクの衣料品も日本でよく売れ、ホンダのワゴンを日本で買って、事業が出来るほどだった。

この独立して事業をしている50~70歳のころが、バンコクで事業をしている日本人にとって、一番もうかった時期かも知れない。

嫁がお金の管理をしていて、そのころは、サトン通りの近くのチャン通りに土地、建物を購入して住んでいて、そのほか、土地や建物の物件を多数、購入していた。

その後、今のラマ4世通りのロータスの横、マノロムビルの敷地があるところの、4階建て5棟分を購入し、チャン通りから移った。そして、1日単位で安くで泊まれるのを売りに、日本人ロングステイ者向けに宿泊所を経営し、それは今でも続いている。

 

同時に、日出レストランを1階で経営し、カツカレー110バーツやハンバーグセット100バーツなど、格安の日本料理店として、ランチ時はタイ人でいっぱいになる。

今では、サトン通りの近くにもサービスアパートを経営し、ラムカムヘン通りなどでも場所貸しをし、さらに、シラチャーの好立地に、こちらもサービスアパートを直営しており、これらは3人の息子たちがそれぞれ管理している。

自身は、日本人も泊まる宿泊所の一角を自分用にして、ささやかながらも、景色がよく、自炊もできるスペースを確保して、日々を送っている。

今は89歳になり、つえは手放せないが、足腰は元気で、病院などにもほぼ行く機会はない。

酒、たばこはやらず、事業のことを考える毎日だが、天に召される時は、5年ほど前に亡くなった嫁と同じように、海に散骨してもらいたいと言っている。

もう十分、精いっぱい生きて、満足できる人生だったと思う。
(敬称略)

 

2018年4月20日 タイ自由ランド掲載

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