しかし戦争がひどくなって、支店には行かれずじまいでした。というわけで日本に行っている8年間は勉強一本でした。
慶応の修士課程を終え、学者の環境にいた私がタイ国へ戻ったのは25歳の時でした。
実力は、仕事で発揮しなければなりません。
すぐにタイ国銀行に入行し、12年間勤めました。
1955年にやめましたが、その時はタイ国銀行国内局局長でした。
その後、ヤンヒー発電所総裁、それから、タイ国銀行副総裁、タイパニット銀行の総支配人を経て、1972年に初めて、大蔵省副大臣になり、その後現在まで5回大臣をやりました。
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日泰協会の会長・チャオ・クン・ピヤマハイサワンが亡くなられた後、もちろん私も当時理事の1人でしたが、タイの理事も日本の理事も私を会長に推し、当時私は大臣ではなかったし、民間にいてそう激務でもなかったので、会長を引き受けました。
私自身元日本人留学生として日タイ両国間の友好促進に寄与したいといつも考えていたし、またタイで活躍している日本人及びタイ人をよく知っていましたので、何かお役に立てると考えたのです。
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私が最初に努力した事は、タイ人と日本人相互の理解を深めることでした。
特に山田長政(タイ人にはオクヤーセーナービムックという名で知られていますが)に関してタイと日本では歴史上の見解が一致していませんでした。
もちろん、日本語の文献も西洋や自国の資料を元に山田長政の歴史を書いているのだと思いますが、タイ側の歴史ではこう書いてあります。
すなわち、山田長政は王様から大変重用され、高い位について絶大な権力を与えられたと思うが、王様の方は100%信用はしていなくてナコン・シータマラートへ送ったのだと。
この日本とタイの食い違いをどうしたら良いか。
例えば、アユタヤ時代の日本人村の記述についても、微妙な食い違いがあるが日泰協会の方針としては、山田長政個人の事より、一体本当のところ、歴史の事実はどうなったのか研究してみたいと考えて、チュラ大学ローンサヤム教授にその研究を依頼したこともありました。
もちろん実際のことを知っている人がいるわけでもないし、その頃のタイの文献やオランダ・ポルトガルの歴史から、どの辺が一番信用おけるのか調べたのですが、後日教授も忙しくなって、完全にはつきとめられませんでした。
(次回号に続く)
