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受験できないとわかって、私は考えてしまいました。
当時、私の叔父や兄達は皆イギリスに留学していました。
私の父は長男でして、下に弟妹がたくさんおりましたが、兄としてずっと援助して、叔父たちを皆イギリスへ留学させたのです。
その叔父の一人が有名なプラヤー スリーウィサーンチャです。
私の兄弟にしても二人の兄もやはり英国留学でした。当時私の家は、経済状態が非常に豊かだったのですが、いざ私の段になると、ちょうど世界的不況のあおりを受けて思わしくなくなり、父も最初からどうやってもお前を外国へ留学させることはできないといっていました。
それで、私自身も海軍大学へ入ろうと決心していたわけなのですが、受験資格がないのでは仕方ありません。
どこか、行き先を探さなくてはならなくなってしまったわけです。
ちょうどその頃日本留学ならあまり経費がかからず、授業料、生活費やら全部入れても月50バーツ位ですむというニュースが耳に入りました。
当時の50バーツというのは、そうですね。初級公務員の給料が月20バーツで十分妻子を養っていけると時世でした。もし、英国留学だと200バーツはかかりましたね。
父に相談したらところ、兄たちも私に賛同してくれて、もし何かあったら自分たちが協力して責任を持つと約束してくれました。それで日本行きが決定したわけです。
その時、私は日本へ行っても必ず軍人のことを勉強しようと固く決意していました。というのは私は1934年に高校を卒業しましたが、折しも1932年の立憲革命のあとで、当時は誰でも軍人になるのが夢という時世でした。
でも、日本へ行ったら海軍でなく陸軍のことを勉強しようと思っていました。
日本へ行くにあたって、当時ゴーボー(著者注:留学生支援)などないし、自分であちこちと連絡をとって船で10日以上もかかって行かなければなりませんでした。
乗ったのは旭日山丸という貿易船で船室が3~4個しかなく、あちこちに寄港しました。
バンコクを出てサイゴン経由で那覇に着き、それから神戸まで行き、神戸からは汽車で東京へ行きました。
知人が出迎えに来てくれました。
私と一緒に行ったのは、男3人女2人でした。東京では杉並区のある家に下宿しました。
そこは、ご夫妻だけの家庭で、英語は一言もできないし、私の方はといえば、日本語は一切話せず、それから一言ずつ日本語の勉強を始めました。
家庭教師についたり、辞書を片手に3カ月間勉強して多少わかるようになりましたが、その間どこへも行かずひたすら勉強したのが、今考えてみると、日本語の進歩に大いに役立ったと思います。(3カ月経って初めて、たまたま船で一緒だった友人と出会って、それを確認した次第です)
(次回号に続く)
2026年11月4日 タイ自由ランド掲載
