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初めに
西野さんの人生においては、多くのタイ人と交流がありましたが、その中で最も出世した人物は、ソンマイ大蔵大臣でしょう。
今回は、そのソンマイ大蔵大臣との交流ついて記録します。
本稿は計8回にわたって掲載する予定です。
ソンマイ大臣の経歴については、追って記述します。
西野さんとソンマイ大臣の出会いは、戦前の日本大使館勤務時代にさかのぼります。
日本銀行から出向していた同僚の中島福三郎書記官から「慶応出身のタイ人留学生が日本銀行で実習しているが、非常に優秀な人物だ」いうソンマイ大臣の評判を聞いていたそうです。
戦後、西野さんがタイに赴任し、ソンマイ大臣と出会うことになったのも、ある意味では必然だったかもしれません。
ソンマイ大臣との交流
西野さんは、ソンマイ大臣の将来性を見抜き、積極的にアプローチするとともに、日本人社会との結び付きを強めるため、さまざまな働きかけを行いました。
具体的には、タイ国元日本留学生協会(OJSAT)の初代会長や、
泰日経済技術振興協会(TPA)会長 への推薦です。
さらに、泰日協会の会長にも推挙されています。
その結果、ソンマイ大臣は泰日工業大学のタイ側の創立者の一人として名を連ねています。
同大学の中庭には、穂積五一先生とソンマイ・フントラクーン大臣の二人の銅像
が建立されています。
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タイバーツ危機
二人の交流の中でも、特に印象深いのは、1997年に発生したタイバーツ危機の際の出来事です。
この危機は、タイ経済が不況に陥る中で発生し、ソンマイ大臣は西野さんに助言を求めたといいます。
著者も、この話を西野さんから直接聞いています。
それまでドルとタイバーツは、固定相場制でしたが、この危機を契機に変動相場制へ移行しました。
余談ですが、当時、「変動相場制」を指す適切なタイ語が存在せず、どのように表現すべきかが議論になったそうです。
その結果、「カーン・ンガン・ローイトア(管理変動相場)」という言葉が生まれました。
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横田画伯の授賞式
二人の関係を示すエピソードは数多くありますが、その一つとして横田画伯にまつわる話を紹介しましょう。
横田画伯が、タイ政府から勲三等を受賞した際、その贈呈式にソンマイ大臣が臨席するよう西野さんが取り計らいました。
授賞式は、サートンにある横田画伯の自宅で行われ、多くの関係者が列席しました。
式典では、ソンマイ大臣がタイ政府を代表して勲章を授与し、西野さんも立会人として参加しています。
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西野さんは、ソンマイ大臣について何度か著者に話してくれましたが、特に次の話が印象に残っています。
「日本国の国費留学生だったので、東京帝国大学などの旧帝国大学に進学するよう勧めた。しかし本人はより自由で開放的校風を求めて慶応大学を選んだ。
また、多くの留学生が官職を目指す中で、それを嫌い、経済学を専攻した」。
(次回号に続く)
(次回号に続く)
2026年8月5日 タイ自由ランド掲載
