西野順治郎氏の没後、20年以上が過ぎようとしています。
この節目にあたり、西野氏の偉大な業績と、著者の子供たちが通った日本人学校について、ここに記しておきたい。
西野氏は1974年、日本人学校の初代運営委員長(理事長)に就任しています。
その後、10年間その職務を全うされました。
泰日教会学校の設立許可を得るためには、日本政府とタイ政府の間で、度重(たびかさ)なる交渉や取り組みが行われ、非常に困難を極めたと聞いています。
田中首相のタイ訪問を契機にタイ政府との交渉が成立したと記憶しています。
一方、著者の子供たち3人はバンコクで生まれ、日本人幼稚園(さくら幼稚園)を経て日本人小学校へ入学しました。
その後、日本人学校の中学部を卒業し、ACC(アサンプション大学付属商業高校)に進学、さらにアサンプション大学を卒業しています。(※現在、ACCは廃校となっています) × × × ×
日本人アイデンティティーへのこだわり
著者は、子供たちを日本人学校に入学に強くこだわりました。
当時、現地で起業した人は、子供を日本人学校に通わせるのが一般的でした。
著者も日本人としてのアイデンティティーを大切にしたいという想いがあったため、日本人学校への進学を選びました。
「文化の高い所からしか、全体を見渡すことができない」という教育観念を持っていたことも、その理由のひとつでした。
駐在員ではない家庭の子弟が日本人学校に入学するには、かなり経済的に高いハードルがありました。しかし、当時の若さと情熱で、なんとかそれを乗り越えることができました。
入学のシステムと寄付金
さくら幼稚園では、和泉校長先生が日本古来の美しさを教育に取り入れ、しっかりとしたしつけを行っていました。
年長クラスになると、日本人学校への入学手続きを代行してくれていたため、
いわゆる「エレベーター方式」により、自動的に入学が許可される仕組みになっていました。
もし、日本の幼稚園を経ずに直接学校への入学を希望した場合、学力や寄付金、さらには家庭のステータスなどがチェックされていたことでしょう。
当時は、授業料とは別に、企業ごとの寄付金制度がありました。
金額はA・B・C・Dの4つのランクに分かれており、最高額は百万バーツ、最低額は二十万バーツだったと記憶しています。
この金額は、著者にとって会社経営上、大きな負担でした。
当時の事務長は、三井物産を退職後、この職に就いた吉野さんでしたが、一度も寄付金の請求書を著者宛に送付することはなく、また、その件について話すこともありませんでした。
西野さんの存在のおかげで、寄付金の納付が猶予されたものと思っています。
なお、この寄付金はあくまでも任意であり、強制ではありませんでした。
現在では、日本人学校は入学金と授業料のみとなり、寄付金制度は廃止されています。
(次回号に続く)
2026年5月20日 タイ自由ランド掲載
