日本人会会報誌「クルンテープ」(1980年2月号)に、西野さんが書いた「泰日協会学校の沿革と新築について」と題する記事がありますので、ここに3回に分けて転載して紹介します。
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学校運営委員長
西野順治郎
当地の日本人学校は第二次世界大戦後、最初に海外で設立された学校であり、開校は1956年(昭和31年)1月22日で、生徒数28名(幼稚園部14、小学部13、中学部1)、教官4名で、当時サラデンにあった日本大使館の中庭の小さな建物でスタートしました。
従来、タイは華僑のタイへの同化政策をとっており、このため華僑の学校は勿論、すべての外国人の学校に対して厳しい態度で臨んでいました。
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日本国内では小、中学校は憲法第26条に規定された義務教育がありますが、日本の法律の及ばない海外に当たっては、その国の法律に従って設立されねばなりません。
タイでは、タイ国の私立学校令に基づいて認可される私立学校となるわけですが、初期には前述のような理由で正式の認可を得る事は出来ませんでした。
ただ、当時の関係者の努力により、「在タイ日本大使館付付属日本語講習会」という名称でタイ政府からその存在を黙認してもらった次第です。
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その後、1960年9月に日本大使館と共に現在の場所(著者注:プロンチット)に引っ越しました。
そして同時に日本政府の補助金制度が認められるようになり、内地から派遣される教官の給与全額と校舎建築については、その費用の半額を国庫で負担してくれることになりました。
1960年代には日系企業の進出が急増したため、当校生徒数も増加の一途をたどり、このため1968年4月より幼稚園を分離して日本人会構内に移転しました。
又同年9月には日本大使館が現在のニューペッブリ通りの新庁舎へ移転したため、これまで大使館が使用していた現在の1号館、2号館を学校が使用することになりました。
そして、その翌年には3号館やプールも完成して一人前の学校らしくなって来ました。
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しかし、大使館と分離してしかもその規模が大きくなるとタイ政府もその存在を黙認のまま放置しておけないという問題が生じて来ました。
特に1970年代に入って、急激な日本の経済進出の結果として生じた摩擦のため排日運動が起こり、当校の存在も槍玉に挙げられるようになりました。
そして、文部省の高官までが「日本人学校を閉鎖させる」というような誤話を新聞に発表するようになりました。
(次回号に続く
2026年4月5日 タイ自由ランド掲載
