第9章-2 国営紡績工場 西野順治郎 列伝 71 ピサヌロークに建設
さらに、プロジェクトの話に入る前に「特別円」について説明して置きましょう。
西野さんは、タイと日本の政治動向を熟知していたので、この特別円の存在も当然フォローしていました。
戦時中、タイ駐留の日本軍がタイ政府から借りた軍費がありましたが、日本が敗戦したためタイ政府は不良債権となっていました。
昭和30年、日本とタイの間で特別円協定が結ばれ、日本側はタイに96億円を返済する約束をしていました。
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プロジェクトの概略と建設に至る経緯
日本からの合弁企業を探していた時、ピサヌローク県にある国防省工業局所管の軍服工場の現状について、以下のような情報を得ました。
この軍服工場は、老朽化が進んでおり増設、改修する必要に迫られていました。
そこで、タイ国防省軍工業局管下でピサヌロークに老朽織機200台程抱えた軍服工場を、政府はここに紡績2万錘(注:すい:紡錘(ぼうすい)を数える単位)、織機200台、染色仕上げ設備をもつ最新式の一貫工場に増設改修する計画を立てていました。
規模として工場内には、労働者約800人程度の稼働を想定。
しかし、政府は戦後の経済疲幣のため、充分な予算が得られず悩んでいました。
そこで、そのような事情を知った西野さんは、日本政府と連絡を取りながら、同時に返済金額の4分の1をこのプロジェクトに費やすよう、当時のタイ政府の首相に働きかけました。
この特別円利用についての案件は、各省庁から多くのプロジェクトが提出されていましたが、最終的に紡績工場建設案件に決定しました。
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プロジェクトの見積りと施行について
同様のプロジェクトは既に、BOIから認可を受けていたので、それと同じ計画とし、見積りは当初の計画の倍の金額をはじき出しました。
建設場所は、バンコクから350キロ離れていること、道路事情が悪いこと、納期の厳守などの理由を付けてオファーしました。
これについて、日本政府がタイ政府に支払う「特別円」なので、その内容についてタイ政府がタッチする事なく、またタイ政府側は当時見積りができる人材がいませんでした。
よって、トーメン側の言いなりの見積り金額になりました。
それは、「ターンキー契約」と言われる契約をタイ政府と交わしたことでわかります。
(注:「ターンキー契約」の説明は次回)
また、当時のカウンターパートはチャワリット国軍司令官を長とする国軍なので、このプロジェクト内容についてこだわらず日本側に任せました。
チャワリット国軍司令官は、後日タイの首相に就任しますが、この時の実績が影響したのかもしれません。それは、同司令官は西野さんに勲章(勲五等タイ王冠)を与えた位ですから、感謝感激アメあられ、だったのでしょう。
(次回号へ続く)
西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長でした¹。1917年8月9日に生まれ、2001年3月5日に亡くなられました¹。以上の情報はWikipediaに掲載されている情報です¹。
¹: [Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E)
ソース: Bing との会話 2023/6/27
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(4) 日タイの親善に尽くした功労者、西野順治郎列伝 ① | タイ バンコク タイ自由ランド. https://jiyuland5.com/%e8%a5%bf%e9%87%8e%e9%a0%86%e6%b2%bb%e9%83%8e%e3%80%80%e5%88%97%e4%bc%9d-%e2%91%a0/.