第5章-4 外務省還帰 西野順治郎 列伝 59 研修所出向
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繰り返しますが、1946年8月単身で上京し、帰国報告のため外務省に登庁した西野さんは、幸運にも外務次官、寺崎太郎氏の秘書官として奉職することになりました。
寺崎太郎外務次官は、気骨のある性格だったので同様の性格の西野さんを登用したのでしょう。
しかし、不運にもこの外務次官秘書官奉職は長く続きませんでした。
半年後の昭和22年1月(1947年)、寺崎太郎外務次官が辞表を出したことによって、秘書官奉職が終了となりました。
なぜ辞表を提出なのか、疑問が出てきますね。それは、彼が高級官僚に留まらず、言論界で活躍したかったからでしょう。
秘書官などの特命職は、上司と共にそのポストを去るのが定めとなっており、今も昔も同じですね。いわゆる、政治的任用ポストですから。
しかし、特命職を放り出された西野さんは、やすやすと見捨てられませんでした。
半年間の外務省勤務実績があり、外務次官の秘書官歴任者を粗末に扱われませんでした。
秘書官任務終了と共に、外務館吏研修所(現外務省研修所)研修員を命じられ、2月1日に入所しています。
この研修所は、戦後吉田首相の命令で、外交官に新時代の外交に必要な教育を受けさせるため設置されたものであり、文京区大塚仲町の高台の上にありました。
そして、東方文化学院の建物を利用しました。
なお、所長は佐藤尚武元駐ソ大使(後に参議院議長)で、西野さんのクラス(8名)の指導官は成田勝四郎(後に西独大使)でした。
しかし、この研修所の目的は建前であって、実際は異なる意図をも伴っていました。
つまり、他の省庁に片道切符で異動させるのですから、手土産代わりで箔を付ける為の「研修所研修」だったのでしょう。
この研修が終わる前に、2週間の研修旅行があり、名古屋、大阪での工場見学や、京都、奈良などの史跡を専門家の案内で見学しています。
この想い出として「楽しかった」と述べています。
既に、他省庁に移籍することになっている身分でしたが、本人は外務省に残れる、と思っていたのでしょう。7月30日に研修を修了しています。
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ここで、西野さんが外務省に残れなかった理由、すなわち当時の外務省のオーバー定員について説明しましょう。
外務省の職員は、その分身であった大東亜省、興亜院(注:占領地に対する政務・開発事業を統一指揮するための組織)などを併せて当時7,500名位在職していましたが、占領軍から1,500名程度の人員に減員するよう勧告されていました。
或る人は、肩たたきを受けて退職した人もいたでしょう。
そんな中で、この研修員制度は見捨てることのできない人材を他省庁に「軟着陸」させ、人脈つなぎの為、かつ温情的処遇だったのでしょう。
(次回号へ続く)
2023年1月5日 タイ自由ランド掲載