第3章-31 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 47 浜田中将と西野順治郎氏 その②
なお、大使館は9月11日付けで閉鎖、14日より軟禁されましたが、西野さんともう一人の大使館員は窓口要員として外出が許されていました。
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中村中将が残した辞世の句は、次の通りです。
「碁に負けて眺むる狭庭(さにわ)花もなく めくら判おいて閻魔(えんま)と打ちに行く」
訳:碁に負けて狭庭(狭い庭)を眺めるが花もなく、めくら判押して閻魔と碁を打ちに行く
「戦争に負け、日本軍はなす術もない。筋の通らぬ降伏文書、その他命令書などに承諾印を押すような屈辱には耐えられない。自分のハンコをここに置いていくから英国側が勝手に押印すればよかろう。自分はあの世で閻魔様と碁を打つよ」という意味でしょうか。
推測ですが、浜田中将は、「英国の報復措置は峻烈で日本側の意見は全く通らないだろう。戦犯になるなら潔く自害する」という考えだったと思われ、既に覚悟を決めていたようですね。
降伏式の儀式が一応終り、区切りがついた後の決行だったのでしょう。
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浜田中将が赴任した時には、既に泰緬鉄道は完成しており、完成後の捕虜の扱いに苦慮したのでしょう。
また、浜田中将は西野さんの伝記の中では、泰麺鉄道建設に書かれていません。
しかし西野さんは泰緬鉄道建設に浜田中将が現地視察した際、案内、通訳として関わっていたのでしょう。
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終戦後中村司令官は、昭和21年3月3日拘禁されてバンクワン刑務所に入っています。
戦後、中村司令官の回顧録の中では、浜田中将の自決の理由について次のように語っています。
「英国、米国軍の捕虜虐待に対する報復が極めて峻烈であることを感じたらしい。さらに、捕虜情報局長官として四囲(四方から取り囲むこと)の情勢上心ならずも自分の抱負を全うし得なかった責任を感じたいたのでは」と書かれています。
なお、中村中将は西野さんより22歳年上ですので自決した時は50歳でした。
また中村司令官は浜田中将より6歳年上でした。
中村司令官は、同じ憲兵という同じ職歴だったのでタイに招いたのでしょう。
結果的に、浜田中将は戦犯として法廷に立たされることに耐えきれなかったようで、中村明人司令官の身代わりになったということができます。
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ここで、蛇足ながら憲兵について説明します。
陸軍大臣の管轄に属して主に軍事警察を挙(こぞ)り、兼ねて行政警察、司法警察も挙る兵科区分の一種。
この憲兵は、戦前市町村に配属され軍警察、治安維持、公安警察などの任に当たっていました。
また占領地においては、交通整理や捕虜の取り扱う任務を行う組織でした。
なお、西野さんが若い頃「特高」に追いかけられた、と書かれていますが、憲兵も恐ろしい感じがしますね。
最後に、旧日本軍司令部はサートン通りに現在のタイ商工会議所旧館として残存しています。
(次回号へ続く)