第3章-22 戦前のチェンマイ 西野順治郎 列伝 38 チェンマイと旧日本軍の北回りルート
初めに
西野順治郎氏の列伝を連載していますが、今回は特別に戦前のチェンマイの出来事を挿入します。
話をする前に写真をご覧になって下さい。
この写真は旧日本軍がミャンマーに進出するためにチェンマイからメーホンソーンへ通じる道路建設を行いましたが、その鉄橋が現在でも残っています。
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1941年12月8日戦争勃発と共に日本軍はタイに進駐しましたが、3日後の11日には『日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定』をタイ=日本間で締結されました。
それによって、旧日本陸軍の道路建設部隊はチェンマイに進出し、そこを拠点としてメーホンソーンに至る道路の建設を進めることになります。
その道路建設は、チェンマイからメーホンソーンへは3つのルートがありましたが、主にこのルートがメインで建設されました。
いわゆる、北回りルートと言われています。
当時西野さんは、チェンマイの副領事として赴任しており旧日本軍のチェンマイ進出に際し、責任者と会っています。
当然ながら、軍隊側は物資の補給、調達について大使館を通じてタイ政府にも依頼することになり、その一翼を大使館が担っていたのでしょう。
このことについて、西野さん自身の伝記では一切触れられていませんが、このように推測するのは妥当なことでしょう。
しかし、西野さんがこの道路建設についての関わりについては少ないとみるべきでしょう。当時は上司の領事が病気がちのため多忙を極めていたので、軍隊の行動について大使館が関与するような状況ではなかったからです。
道路建設について
北回りへの道路建設について、チェンマイからメーホンソーンまで約200kmあり、その中間に日本軍が作った鉄橋がありそこがパーイ町です。
この街を眺めると、街の中心から、碁盤の目の様に区画されています。
日本軍がこの街を兵站地として活用するために、街の道路を直線に変えたのでしょう。
ちなみに、タイでは碁盤の目の様な街並みを探すことは難しく、日本軍が残した遺産とも言えるでしょう。
また日本軍の進出と共に、チェンマイ・メーホンソーン間の連絡のために使われた飛行場があり、この飛行場は現在使われています。
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パーイの紹介
この街を初めて訪れた著者ですが、一度訪れた人は誰でも好きになる町です。昔ながらのきれいな町並みが残っており、現在に至っています。
3階以上の建物建築は禁止されており、周囲の山の連なりが鮮明に見えます。
ここに進出した日本の兵隊さんは、地形が日本に似ているので日本を思い出し望郷の念に駆られた人がいたかもしれませんねー。
そんな「桃源郷」を思い出させる町がパーイです。なお、チェンマイからパーイまで130kmありミニバスで約3時間の道のりです。
(次回号へ続く)