第3章- 18 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 33 日本料理店「花屋」
花屋さんと西野順治郎さんのこと
戦前のタイを語る時、日本料理店「花屋」を抜きに語れないようです。
この店は、当時唯一の日本食で、日本人の間で情報交換の場になっていたと想像するからです。
もちろん西野さんも利用したと、想像に難くないです。
以下、「花屋」2代目の綿貫 孝(70歳)さんに、当時の事を語って頂きましたので、それを基に書いて見ました。
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バンコク市、ニューロードにある日本料理店、花屋はタイで最も古い日本料理店です。オープンは、1939年(昭和14年)です。
この2年前に、西野さんはバンコク留学を命じられて来タイしていますので、学生の身分だった西野さんは3年間の留学生時代に、何回かこの店に足を運んだことでしょう。
当時日本料理店は、この店に限られていたわけですから。
そして大使館員として任官されてからは、住居をスリウォン通りに移ったので花屋さんとはさらに近い場所になり、仕事上の関係もあり頻繁に足を運んだことでしょう。
当時の花屋さんの繁盛ぶりを紹介します。戦争前に開店した花屋さんは、終戦まで日本人社会の「たまり場」となって繁盛したようです。
それというのも、当時駐在員は日本との連絡に電報を利用しており、そのためにニューロードにある中央郵便局へ日課として日参しなければならなかったためです。そこの窓口はいつも混んでいたので、そのため遅くなる時もあったようです。
ようやく電報が終わると、近くにある花屋に行って夕食をとっていたのでしょう。
その花屋に来た駐在員と顔を合わせることになり、情報交換の場になったようです。
またこの店の近くに、日本人学校があった事もこの店が賑わいを見せたことと関係していたでしょう。
さらにこの店のロケーションが有利だった、と指摘することができます。
現在なら、スクムビット・ソイ39の入り口にある場所に相当します。
すなわち、当時ビジネスの中心は銀行を中心としたヤワラートのサンペン地区で、繊維問屋街だったのです。
後日の話になりますが、トーメンの支店はここにオープンしています。
サンペン地区、オリエンタルホテル、中央郵便局、タイの移民局(イミグレーション)などの重要エリアに花屋があり、このため日本人はこの店を利用したのでしょう。
ここで、2代目の綿貫さんと西野さんの出会いの話を紹介しましょう。
「私は1回だけ西野さんに会っています。西野さんが、スクムビット・ソイ7の一軒家に住まれていた頃、その家に出前を届けに行ったのです。それは今から約40年位前の話になります」と。
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一期一会(いちごいちえ)とは、言えないでしょうか?
(次回号へ続く)