第3章- 17 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 32 西野さんの結婚 その2

西野さんが通ったニューロードにある中央郵便局(著者撮影)

金子豊治氏と西野さん

西野さんの人生を大きく左右した人物として、金子豊治という人がいます。

既に書いたように、西野さんの奥さん、光枝さんの父に当たります。

わずかな資料しか存在しないので推測も含めて書いてみましょう。

この人物を取り上げるきっかけになったのは、西野さんの孫に当たる西野輝泰氏(45歳)が金子豊治氏について著者に紹介してくれたからです。

なお輝泰氏は、現在東京千代田区一番町で単独機能強化型在宅支援診療所を運営しているお医者さんです。
ここで、泰輝氏から著者へのメールを全文紹介します。

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「曾父母にあたる金子豊治はかなり偉い外交官であったと聞いております。祖母(光枝)は、インド生まれで幼年期はフィリピン育ち、その後サンフランシスコで小学校、中学校生活していたという事で、当時の事を考えると、外交のトップにいたように思います。私も祖母が生まれたインドにあった元日本大使公邸を見に行きましたが、非常に立派な建物で現存しておりました。」

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お孫さんの話と一部重複になりますが説明します。

輝泰氏の曾父母に当たる金子豊治氏は、西野さんの奥さん(光枝)の父に当たります。

祖母(光枝)は、父金子豊治氏の勤務に伴いインド、フィリピン、サンフランシスコ、ミャンマーに移り住んでいました。

まさに、外交官として世界を舞台に活躍していたことになります。

また金子豊治氏は、西野さんの自叙伝によると、当時台湾拓殖会社のバンコク支店長の職にあったと書かれています。

なおこの会社は、日本の統治下において、台湾の工業化及び南支・南洋の開発事業を進める目的で設立された半民半官の国策会社です。

外交官が身分を民間人に代え、外国で諸活動を行っているのは過去も現在も同じです。

また今も昔も同じですが、外交官は自分の娘を優れた外交官に嫁がせたいと願うのは親バカでしょうか。

なお金子豊治については、ネット上にその実績を残していて閲覧することができます。

以下推測になりますが、戦後日本に引き上げて外務省に戻った際、金子豊治氏は裏で西野さんのために動いたことでしょう。

何しろ外務省は海外からの引き上げで、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から定員を7,500人から1,500人に減員勧告されていた時代ですから。

自分の娘のために、さらに娘婿のために影響力を行使したと思われても仕方ないでしょう、それは当然の行為だったのでしょう。
今も昔も役所では、閨閥(けいばつ)、学閥、そして派閥が幅をきかせている世界ですので。

外務省に戻って半年後、外務館史研修所(現外務省研修所)の研修員に命じられたのも金子豊治氏の影響力を感じます。

彼の存在がなかったら、過剰定員の理由で外務省を自主退職させられていたかもしれません。

このように、人間の人生はその時その時の人との出会いによって大きく左右されるものですね。

(次回号へ続く)

 

2021年11月20日 タイ自由ランド掲載

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