第3章-16 戦前のバンコク 西野さんの結婚 その1 西野順治郎列伝31

見合いの場所はバンコク最古の日本料理店「花屋」(撮影:著者)

西野さんは1942年(昭和17年8月)25歳の時に光枝さんと結婚しています。
その結婚について、以下想像、推察も含めて紹介しましょう。

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西野さんがチェンマイに勤務していた頃、既に述べた通り1942年7月に広田弘毅元首相を団長とする使節団が、日タイ同盟条約を祝賀するために来タイしました。
この時、西野さんはチェンマイからバンコクに出張して祝賀会に出席しました。
その際、内山清総領事から縁談の話を持ちかけられました。
相手は、台湾拓殖会社バンコク支店長金子豊治さん(元ラングーン支店長)の次女、光枝さんで西野さんより4歳年下です。
西野さんは、この時総領事の持ちかけた縁談に対して断ることもなく消極的に承諾しました。
それで、1週間後ニューロードにあった日本料理店「花屋」で、相手方は夫婦と本人の3人、こちら側は総領事と西野さんの合計5名が揃い会食をしました。
これが、云わゆる見合いでかつ、婚約の儀式で、総領事は1ヵ月後に挙式を提案しました。
そして翌月の8月に内山総領事が媒酌人となって華燭(かしょく)の典をあげました。
当時は縁談がまとまると間を置かずに挙式を挙げるのが習慣でした。
このことについて、若い読者から「現実にありえない、早すぎる」という指摘があったので、話しが横にそれますが当時の状況を説明しましょう。
社会状況
昭和10年頃から、日本は戦時体制になっていました。
国民に我慢(勝つまでは欲しがりません)を強いて戦争への道を進んでいた時代です。
一方で、戦争に反対する人を特高警察が取り締まっていました。
結婚について
戦後の憲法で「結婚は両性の合意のみに基づいて成立する」と規定されましたが、それ以前は家制度の中で双方の親が話し合いで決めて、それを本人に強制していました。
家長権を持つ親の言うことは絶対でした。
もし親に反対すれば勘当(かんどう)という方法もありました。
よって当人は、親の言う通りに従いました。
それが世間という社会風潮でした。
仮に、出戻りが行われると親は世間体が悪いということで、それを許さずひたすら我慢させました。
男性は軍人となって、天皇に尽くすことが最高の誉とされ、また女性は子供を産んで子孫を残す事が義務とされて来ました。
軍人は出征すれば生きて戻らないかもしれないので、日本の将来のために女性に身ごもらせ、安心して戦場へ行きました。よって、一回のお見合いで合意してその後、まもなく祝言を交わす儀式は習慣となっていました。
一方結婚しない女性に対しては「非国民」というレッテルを貼り、独身者に対して肩身の狭い立場に追い込んでいました。
また、当時は男性が戦場に行くため婚期者が少なく、逆に女性は男性より余っていた時代でした。(婿1人に嫁10人の状態でした)
まとめ
以上の説明により、当時の様子が理解できると思います。
現在と時代が違うので、理解することは難しいかもしれませんね。

(次回号へ続く)

 

2021年11月5日 タイ自由ランド掲載

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