はじめに
新野さんと西野さんは、多くの共通点があります。
それぞれ異なる道を歩んだニ人ですが、彼らの人生を振り返えると、不思議なほど似た価値観や信念に気づかされます。
今回は、その足跡をたどりながら、二人の人となりに少しでも迫ってみたいと思います。
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二人の出会い
戦後、新野さんは日本からタイに戻り、当時新たに設立された在バンコク在外事務所(のちの在タイ日本大使館)に勤務されています。
一方、西野さんは、商社・トーメンの駐在員としてタイに赴任し、在留届を提出する際、初めて新野さんと顔を合わせています。
その時点では、交流はありませんでしたが、互いにタイという土地で人生を重ね、心からタイを愛し続けたという共通点があります。
新野さんは、その出会いの瞬間から西野さんに敬意を抱き、以後、生涯を通じて尊敬の眼差しを向け続けたと言われています。
また、同じ時代をタイで生き抜いた日本人の中でも、新野さんは、人柄や生き方の面で西野さんとよく似ていたようです。
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新野さんの生い立ち
西野さんより12歳年下で、1929年2月、バンコクで生まれています。
幼少期はバンコクの日本人学校で学び、小学5年のときに日本に渡り、横浜の親戚宅から通学する日々を送りました。
神奈川県立第一中学校(現在の県立希望ヶ丘高校)を卒業後、官立横浜工業専門学校(現、横浜国立大学工学部)へ進学しています
1948年(昭和23年)、19歳の時横浜国立大学工学部建築学科を卒業。(※戦前は飛び級制度あり)
当時の日本は戦後復興の真っただ中。
新野さんは、復興や補修工事が急務となっていた建築業界に、比較的容易に就職することができました。
数ヶ月後にアメリカ軍の工兵隊に建築士として採用され、アメリカ軍属が住む住宅や、軍が使用する建物の補修工事の工程管理を担当任されました。
日本で約2年間働いた後、タイの家族の意向もあり、再びバンコクに戻ることになったのです。
1950年(昭和25年)1月2日、バンコクに帰国。
10年間使っていなかったタイ語のカンを取り戻すため、YMCAなどでタイ語を学び直しています。
そして翌年の1951年(昭和26年)3月22日、バンコクに日本の在外事務所が開設され、鈴木浩一氏が所長に就任。
その準備段階で、新野さんは調査員の通訳として貢献し、これがきっかけで現地採用職員として働くことになったのです。
この時新野さんは、まだ22歳でした。
(次回号に続く
2025年11月5日 タイ自由ランド掲載
