三か月後。バンコクは穏やかな雨季の朝を迎えていた。プラカノン運河沿いの古い洋館は、今や「愛の研究所」として生まれ変わっていた。かつてクラウス・シュミットが闇の研究を行っていた地下室は、人々の心を癒す治療施設となっている。
ナンディーは白衣を着て、新しい患者を迎えていた。彼女は今、医師として、そして超自然現象のカウンセラーとして、心に傷を負った人々を治療している。かつてのマスター・デバイスは完全に浄化され、今では愛と調和のエネルギーを放つ治療装置として稼働していた。
「先生、また新しい患者さんが来られました」助手が報告した。
「どのような症状ですか?」
「原因不明の不安感と、夜中に誰かに見られているような感覚だそうです」
ナンディーは微笑んだ。「かつての扇風機の影響が残っている方ですね。大丈夫、必ず癒せます」
研究所の一階では、佐藤ケイが執筆活動に集中していた。彼は一連の体験を本にまとめ、世界中の人々に愛の力について伝えようとしていた。本のタイトルは「愛が運ぶ光 ~タイ妖怪縦断記~」。既に出版社からの反響は大きく、多くの言語に翻訳される予定だった。
「佐藤さん」ナンディーが階段を降りてきた。「お疲れ様です。執筆は順調ですか?」
「おかげさまで」佐藤は振り返って微笑んだ。「でも、言葉では表現しきれないことが多すぎて…あの時感じた愛の力を、どうやって読者に伝えればいいのか」
「大丈夫です」ナンディーは彼の肩に手を置いた。「あなたの真摯な気持ちは、必ず伝わります」
庭では、ハンス・ミュラーとクラウス・シュミットが、平和な午後のひとときを過ごしていた。90歳を超えた二人の元科学者は、今では親友として、残された時間を有意義に使おうとしている。
「クラウス、君の発明した浄化装置のおかげで、多くの人が救われているよ」ハンスは言った。
クラウスは穏やかな表情で答えた。「70年間の過ちを償うには、残りの人生では足りないかもしれないが…少しでも役に立てるなら幸いだ」
「君は十分に償った」ハンスは友人の手を握った。「愛の力を科学的に解明し、それを世界に広める装置を作り上げたのだから」
二人の間には、戦争の傷跡を越えた深い友情が育まれていた。過去の過ちを共に償い、未来への希望を共に抱く…それもまた、愛の一つの形だった。
夕方になると、ソムウィットが仕事を終えて研究所を訪れた。彼は今でも警察官として働いているが、週末は研究所でボランティア活動を行っている。特に、心霊現象に悩む人々の相談に乗ることが多い。
「今日はどんな相談がありましたか?」佐藤が尋ねた。
「子供の頃から幽霊が見えるという女性でした」ソムウィットは答えた。「でも、話を聞いてみると、それは恐怖すべきものではなく、亡くなった祖母からのメッセージだったんです」
「素晴らしいですね」ナンディーは微笑んだ。「恐怖を愛に変える…それが私たちの使命です」
五人が食卓を囲む夕食の時間。それは、家族のような温かさに満ちていた。血縁ではないが、愛という絆で結ばれた真の家族だった。
「皆さん」佐藤が言った。「あの夜から三か月が経ちました。世界は確実に変わっていると思います」
「そうですね」ナンディーが同意した。「研究所にも、世界中から感謝の手紙が届いています。愛の力を信じる人が増えている」
ハンスが資料を取り出した。「科学界でも変化が起きている。愛や思いやりを科学的に研究する分野が注目を集めているんだ」
クラウスも頷いた。「私たちの研究が、真の意味で人類の進歩に貢献できているということか」
ソムウィットは地域の変化について報告した。「プラカノン一帯の犯罪率が大幅に低下しました。人々の心が穏やかになっているんです」
食事の後、五人は庭に出て夜空を見上げた。満天の星が輝く中、彼らは三か月前の出来事を静かに振り返った。
その時、夜風に乗って懐かしい声が聞こえてきた。
「佐藤さん…皆さん…」
振り返ると、薄っすらとした光の中に、チャイヤポーンの姿が見えた。続いて、マリー、マライとカーン、ナークとマーク、そしてナーガの影も現れた。
「皆さん…」佐藤は感動で言葉を詰まらせた。
「私たちは今、平和な世界にいます」チャイヤポーンが語りかけた。「でも、時々こちらの世界の様子を見に来るんです」
マリーが微笑んだ。「研究所の素晴らしい働きを、あちらの世界でも皆が喜んでいます」
マライとカーンが手を繋いで言った。「愛の力は、生と死の境界を越えて広がっています」
ナークとマークが愛情深く語った。「真の愛は永遠です。皆さんが蒔いた愛の種は、永遠に花を咲かせ続けるでしょう」
そして、ナーガが雄大な声で宣言した。「自然と人間の調和も保たれています。メコン川も、タイの森も、すべてが平和です」
救済された魂たちは、感謝の言葉を残して再び光の中に消えていった。しかし、彼らの愛は確実にこの世界に残り続けている。
「私たちの戦いは終わったけれど」佐藤が言った。「愛を広める使命は続いているんですね」
「そうです」ナンディーが答えた。「でも、それは戦いではありません。喜びです」
ハンスが科学者として付け加えた。「愛は自己増殖する。一つの愛が二つに、二つが四つに…無限に広がっていく」
クラウスは深い感慨を込めて語った。「私は70年間、間違った道を歩んでいた。しかし、最後に正しい道を見つけることができた。愛こそが、真の科学なのだ」
ソムウィットは地域の守護者として誓った。「この平和を守り続けます。そして、愛の力を信じない人がいれば、必ず説得します」
夜が更けていく中、五人は互いの手を取り合った。年齢も国籍も背景も異なるが、愛という共通の価値観で結ばれた仲間たち。彼らの絆は、これからも永続するだろう。
一年後。佐藤の本は世界的なベストセラーとなり、多くの言語に翻訳された。「愛の研究所」には世界中から見学者が訪れ、ナンディーの治療法は国際的に認められた。ハンスとクラウスの共同研究は、愛と調和の科学として新しい学問分野を確立した。ソムウィットは地域コミュニティのリーダーとして、人々の心の平和を守り続けている。
そして今日も、プラカノン運河のほとりで、五人の仲間たちは愛を語り合っている。かつて闇に支配されていた場所は、今や希望と愛の象徴となった。
夕陽が運河を黄金色に染める中、どこからか子供たちの笑い声が聞こえてくる。新しい世代が、愛に満ちた世界で育っているのだ。
「愛がすべてですね」ナンディーが呟いた。
「そうだ」佐藤が頷いた。「愛がすべてを変え、愛がすべてを救い、愛がすべてを結ぶ」
「愛は永遠だ」ハンスが科学者として断言した。
「愛は無限だ」クラウスが哲学者として付け加えた。
「愛は力だ」ソムウィットが守護者として宣言した。
五人の声が一つになって、夕陽の空に響いた。
「愛がすべて」
その言葉は風に乗って世界中に届き、多くの人々の心に希望の種を蒔いていく。クラウス・シュミットの遺した闇は完全に浄化され、今や愛の光として世界を照らし続けている。
物語は終わったが、愛の遺産は永遠に続く。プラカノン運河の夕陽は今日も美しく、そこには愛と希望だけが存在している。
愛がすべてを征したのである。
~完~
https://kakuyomu.jp/works/1681809308310475138