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バンコク怪奇譚2 タイ妖怪縦断記 ~黄色い扇風機が呼ぶ古き精霊たち~ 第4話 愛の幽霊 ― ナーク

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バンコク近郊、プラカノン区にあるマハーブット寺。この古い寺院は、タイで最も有名な幽霊譚「メー・ナーク」の舞台として知られている。150年前、美しい女性ナークが夫マークの帰りを待ち続け、死後も愛し続けたという物語は、世代を超えて語り継がれてきた。

佐藤ケイとナンディーが寺院に到着したのは、夜明け前の静寂に包まれた時間だった。境内には古い仏塔が立ち並び、蝋燭の明かりが幻想的な影を作り出している。参拝者は少なく、二人の足音だけが石畳に響いていた。

「ここがナークの寺院ですね」ナンディーは周囲を見回しながら言った。「でも、なぜクラウスの扇風機の影響が、ここまで及んでいるのでしょうか?」

佐藤は携帯電話を確認した。画面には新しいメッセージが表示されている。「Die Liebe kennt keine Grenzen, auch nicht den Tod(愛に境界はない、死でさえも)」そして、その下に古い写真。若い夫婦が微笑んでいる白黒写真だった。

「ナークとマークの写真…」佐藤は驚いた。「でも、これは150年前の人物のはず。なぜクラウスが…」

その時、境内の奥から女性の歌声が聞こえてきた。美しく、しかし切ない調べで、タイの古い子守唄のようだった。二人は声の方向へ向かった。

本堂の裏手にある小さな祠の前で、白い衣を着た女性が座り込んでいた。長い黒髪で顔は見えないが、その姿は確かに美しく、まるで古典絵画から抜け出てきたような優雅さを漂わせている。

「ナーク…」佐藤は息を呑んだ。

女性はゆっくりと振り返った。その顔は想像以上に美しかったが、目には深い悲しみが宿っている。そして、その美しさの中に、どこか不自然な静寂があった。生者の持つ躍動感が、完全に失われている。

「あなたたちは…」ナークは優しい声で問いかけた。「マークを見ませんでしたか?私の夫を…」

ナンディーは医師として冷静に状況を分析しようとしたが、ナークの美しさと悲しみに心を動かされずにはいられなかった。これまで対峙してきた妖怪たちとは明らかに異なる存在だった。狂気に陥っているのではなく、ただひたすらに愛し続けているのだ。

「ナーク」佐藤は慎重に近づいた。「マークは…もう150年前に亡くなっています」

ナークの表情が曇った。「そんなことはありません。彼は戦争から帰ってくるはずです。私は…私は彼を待っているんです」

佐藤の携帯電話に詳細な情報が表示された。クラウス・シュミットの研究記録の一部らしい。それによると、ナークの愛の強さは、時空を超越する力を持っており、扇風機はその力を増幅させているという。つまり、ナークは単なる幽霊ではなく、愛という感情が時間と空間を歪めた結果生まれた、時空異常現象の中心にいるのだ。

「なるほど…」佐藤は理解した。「クラウスは、ナークの愛の力を研究していたんです。そして、扇風機はその力を軍事利用しようとした結果…」

その時、境内に異変が起こった。空気が歪み始め、まるで水面に石を投げたときのような波紋が広がっていく。そして、その波紋の中から、若い男性の姿が現れ始めた。

「マーク…」ナークは歓喜の声を上げた。「やっと帰ってきたのね!」

現れた男性は確かにマークだったが、その姿は半透明で、明らかに実体を持たない存在だった。しかも、彼の表情には困惑と苦痛が刻まれている。

「ナーク…」マークは苦しそうに言った。「君は…もう150年も僕を待っているのか?」

「当然です」ナークは微笑んだ。「愛する人を待つのは、妻の務めですもの」

しかし、マークの次の言葉は、ナンディーと佐藤を驚かせた。

「ナーク、僕は君を愛している。でも…君が僕を愛し続けることで、多くの人が苦しんでいる」

佐藤の携帯電話に新しい情報が表示された。ナークの愛の力が時空を歪めることで、この一帯では恋愛関係にある人々に異常な現象が起きているという。破局、不倫、さらには愛情が憎しみに変化する事件が多発しているのだ。

「あなたの愛が、他の人たちの愛を壊してしまっているんです」ナンディーが優しく説明した。「医師として、この地域の相談を受けることがありますが、異常な恋愛トラブルが急増しています」

ナークは困惑した。「でも…私はただマークを愛しているだけです。それがどうして…」

マークは妻に近づいた。「ナーク、愛は独占するものじゃない。分かち合うものなんだ。君が僕だけを愛し続けることで、他の人たちの愛を奪ってしまっている」

その時、境内に新たな人影が現れた。30代の夫婦が険しい表情で言い争いをしている。そして、20代のカップルが激しく対立している。さらには、老夫婦が冷たい視線を交わしている。

「これは…」ナンディーは医師として分析した。「ナークの愛の力に影響された人たちです。愛情が歪んでしまっている」

佐藤は理解した。「クラウスの扇風機が、ナークの愛の力を増幅させて、この一帯の恋愛感情を混乱させているんです」

ナークは涙を流し始めた。「私は…私はただマークを愛していただけなのに…」

マークは妻を抱きしめた。「君の愛は間違っていない。でも、その愛を手放す勇気も必要なんだ」

「手放すって…でも、愛は永遠のものじゃないんですか?」

ナンディーが医師として、そして一人の女性として答えた。「愛は永遠です。でも、愛の形は変わることがあります。執着から解放することも、愛の一つの形なんです」

その時、佐藤の携帯電話に最後のメッセージが表示された。「Wahre Liebe bedeutet Loslassen(真の愛とは手放すこと)」

境内に現れていた争う人々の表情が、徐々に穏やかになり始めた。ナークの愛の力が和らぐにつれ、彼らの歪んだ感情も正常に戻っていく。

「ナーク」マークは妻の手を取った。「僕たちの愛は永遠だ。でも、その愛を他の人たちと分かち合おう。君の優しさと美しさを、苦しんでいる人たちのために使ってほしい」

ナークは長い沈黙の後、頷いた。「わかりました、マーク。でも…寂しくなります」

「寂しくなんかないよ」マークは微笑んだ。「僕は君の心の中で生き続ける。そして、君が他の人を愛するたびに、僕たちの愛も成長していくんだ」

境内に温かい光が満ち始めた。それは、ナークとマークの愛が、執着から解放へと昇華された証だった。

争っていた人々は、お互いを見つめ合い、やがて和解の抱擁を交わした。夫婦は手を取り合い、カップルは優しく微笑み合い、老夫婦は若い頃の愛情を思い出したかのように目を潤ませた。

「ありがとう」ナークは佐藤とナンディーに深々と頭を下げた。「あなたたちのおかげで、本当の愛の意味を理解できました」

マークも二人に感謝の言葉を述べた。「ナークを、そして僕たちを救ってくれてありがとう」

夫婦の姿は徐々に光に包まれ、やがて美しい光の粒子となって夜空に舞い上がった。それは、争いや執着ではなく、純粋な愛と感謝の光だった。

境内に平和が戻ると、本堂から住職が現れた。老僧は二人に深々と頭を下げる。

「長い間、この寺院を悩ませていてた問題が解決されました」住職は感謝を込めて語った。「ナークは本来優しい魂でしたが、何かの力に影響されて愛が歪んでしまっていました。あなたたちが彼女を本来の姿に戻してくださった」

佐藤とナンディーは境内を後にした。車に乗り込みながら、今夜の体験について語り合った。

「愛について、深く考えさせられました」ナンディーが運転席で言った。「医師として、愛情の病理を扱うことがありますが、今夜のような純粋な愛を見たのは初めてです」

「ナークとマークの愛は、本当に美しかった」佐藤は同意した。「でも、その愛が他の人を苦しめていたとき、彼らも苦しんでいたんでしょう」

携帯電話に新しい座標が表示された。今度はルーイ県。そして「Phi Ta Khon」という文字。

「ピー・ター・コーン祭りですね」ナンディーが説明した。「色鮮やかな仮面をつけた祭りの妖怪たち。でも、なぜそこに…」

「祭りの混乱に紛れて、何かが起こっているのでしょう」佐藤は推測した。「でも、今回は恐怖ではなく、情報収集が目的かもしれません」

車がバンコクの街灯を後にして北へ向かう中、二人は今夜の体験を振り返った。愛の本質、執着と解放、そして真の思いやりについて。それらのテーマは、これからの戦いにも深く関わってくるだろう。

「佐藤さん」ナンディーが言った。「私たちの戦いも、愛から始まっているんですね。苦しんでいる魂への愛、人々を守りたいという愛」

「そうですね」佐藤は頷いた。「クラウスの扇風機は憎しみや恐怖を増幅させますが、私たちには愛があります。それが、最終的に勝利をもたらしてくれるはずです」

夜空に星が瞬く中、二人の絆はさらに深まっていた。科学者と超自然現象の専門家という枠を超えて、共通の価値観と使命感で結ばれた真のパートナーシップが築かれていた。

ルーイ県への道のりは長い。しかし、二人には確信があった。どんな困難が待ち受けていても、愛と理解の力があれば必ず道は開ける。クラウス・シュミットの遺した闇を浄化する戦いは続く。そして、その戦いは、人間の最も美しい感情である愛によって支えられているのだ。

遠くの山々が朝焼けに染まり始める中、二人の車は新たな冒険へと向かっていく。祭りの地ルーイで、どんな出会いが待っているのか。それは、まだ誰にも分からない。

 

 

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