【なつかしい記事】タイのバンコクでロングステイする浜田さんの新居は、バンスー駅につながる高架新線の駅近

地下鉄バンスー駅まで行くのは初めてかも知れない。スクムビット駅からは結構、長いのだ。あまりこの終着駅まで乗る人はいない。途中のチャトチャク駅などで多くが降りていく。バンスー駅の改札を出て歩くと、さらに長い地下通路が待っていた。まるで半蔵門線の連絡通路のように長い。
地上に上がると、バイクタクシーやタクシーなどで活気づいていて、地方のにぎやかな市場周辺に来た感じがする。よく見ると列車の駅がそばにあって、それがその雰囲気をかもし出しているようだ。

本当は、このバンスー駅まで現在、建設中の新線は連絡通路でつながるはずである。その工事らしきものも大がかりに行われている。

さて、駅からタクシーに乗り「クルンテープ・ノンタブリー・ソイ25」に向かった。ずっと外を眺めていると、高架路線がほぼ出来上がっている。ロータスが目印となり、タオプーンの駅も出来上がっているようだ。そしてクルンテープ・ノンタブリー通りに入り、ここにも高架がずっと続く。片側2車線のせまい通りに高架のBTSである。「そんなとこ、今まであったかな?」と思う。せまいのだ。今まであるBTSは少なくとも片側3車線の通りでなかったか。

そんなことを考えていると、すぐに目的地に着いてしまった。ソイの入り口に停めてもらい、あたりを見渡した。

ここが浜田さんが言っていたクロスポイントなのか。確かに通りには巨大な駅がつくられており、交差するもう1つの高架路線がどこにあるのかは、それはわからなかった。

ソイ25を入って行き、電話をして「着きました!」と告げて、ソイを歩いていく。のどかな下町だ。ラプラオのソイの奥もこんな感じかな。床屋があったり、雑貨屋があったり。皆、涼んでいて、笑顔が絶えない。こんなところに来ると「あくせく働かなくてもいいんだ」と癒される。そこでス~と力を抜けるところが、タイのいいところだろう。

そんなことを考えながら歩くと、向こうからそれらしい人が見えて、安心した。

浜田さんの新居を見るために来たのだ。どんなところかな、と楽しみにしたが、着いてみると廃墟のような建物だった、5棟連なるタウンハウスで、築後6~7年がたっていそう。放置されたため、見た目は廃墟に見える。その一番端のを350万バーツで買い、今、2階で暮らし始めた。他の4棟は放置状態。だれも住んでいないのだ。そんなの危なくないですか?

ただ、この奥は浜田さんのタイ人の奥さんの実家があり、いろいろ土地を持っていたりして、元締めのような感じなので、何かあったらまわりの人が助けてくれるようだ。

住み始めた2階に案内され、バスタブやキッチンなども設置されて、居心地はよさそう。3、4、5階と上がって6階が屋上。現在、床や壁などを内装中。屋上からの眺めは素晴らしい。まわりがほとんど2~3階までの建物だから、四方、向こうまで見渡せる。

タオプーンからバンヤイに伸びるBTS新線。ソイ25の入り口に大きな駅が出来上がっている。そしてもう1つの新線。それがここを通るのが信じられなかったが、来て、目で見て、確かにそうだとわかった。だったら計画路線としてよく地図で書いてあるのは何なのか?
というのも、チャランサニットウォン通りからチャオプラヤー川を渡る新線がこのソイ27あたりを通っているのだ。まわりは区画整備され、今にも巨大なショッピングセンターがつくられるのでは、というくらいの広さ、実際にあとでその場所まで行ってみると、ソイ25の入り口の駅とは違う路線の駅がそばに出来上がっており、駅名は「バンソン」と刻まれている。

ちょうど、列車と並行して走っていて、エアポートリンクのマッカサン駅やラチャプラロップ駅の感じ。その上に周辺の土地整備が進んでいて、このあたりが開通ともに発展するのが目に見えるようだ。2つの駅はエアポートリンクのパヤタイ駅とBTSのパヤタイ駅のような感じで、高架上で連絡し合っている。

あたりにはポツポツと高層のコンドミニアムが建っていて、開通すればまだまだ建てられるだろう。バンソン駅の目の前にそびえたつ大きなコンドーを、浜田さんの奥さんは頭金を払っているようだ。しかし、土地付き建物の魅力がまさり、廃墟のタウンハウスを購入したよう。

しかし、どう見ても、浜田さんからしたら、新しいコンドミニアムに入居する方が断然、ワクワクするだろうなあ。

内装もできていて、ファニチャーも揃っていて、200万バーツ台だから、それなりの人が住んでいて。

しかしまあ、一銭も貯金のない浜田さんは奥さんのいうことを聞くしかない。それでも日々の生活が困ることもなく、73歳になる山田さんは、快適なロングステイを送っている。楽しみというと、週に1回、奥さんと近くのモールに買い出しに行くこと。そこにプールがあり、泳ぐのが好きだという。それならなおさら、コンドーを買った方がよかったのでは、と思うが。

そしてもう1つの楽しみは、今までずっと借金の肩代わりとなっていた年金が、やっと自分のものになることだ。50歳前に会社を辞めたので、1ヵ月12万円ほどしか入らないが、それでもタイで暮らしていくには十分だ。今まで、事業の失敗などでその年金を巻き上げられていたが、ようやく、自分のヘソクリになる。
年金のことをまだ奥さんに話していないので、

自分が自由に使えるお金として、楽しみなのだ。

一流商社を辞めたのは47歳のころ。自分で会社をつくって、輸入品を大手スーパーなどに卸した。初めは順調だったが、徐々に買い取りではなく、委託にされ、返品が相次いだ。それで競争の激しい日本でなく、海外に出たいと考えるようになった。もともとドイツで常駐したりと、海外での事業の基本はわかっていた。だからあとは、場所を選ぶだけ。ヨーロッパ、アメリカ、南米、アジアなど40ヵ国近くまわり、どこが適しているかを見た。ポイントにしたのは、コネがなくてもやっていけるところ、あまり競争が激しくないところ、あまりお金がなくてもやっていけるところ。

そんななか、タイは当時、アジアのへそと呼ばれ繁栄のまっただ中にあった。それでタイに来ることを決心し、50歳の時にやって来た。

そのころは日本からも続々、企業がやって来た。タイでのビジネスは活況。その波にのり、自分も日本人向けクラブを2軒、そしてサトン通りに15部屋くらいを借り。アパート経営もした。当時、日本に来るタイ人の犯罪や裁判等が相次いだため、日本の警察が若手をタイに送り込んで、タイ語の習得に励んでいたころで、その常宿としての利用が多かった。

イケ!イケ!のころだったが、今思うと、その時に投資した土地や建物がまずかった。バンコク郊外で100万~150万バーツほどの土地を多数買い、値上がりを待った。しかし、一向に上がらない。目測を誤った。

それで借金をしたりと、浮き沈みは経験したが、それなりに楽しい生活を送れたのはタイだったからだろう。

一流商社を辞める時、妻に「何で辞めるの!」と猛反対され、起こした会社もうまくいかず、妻は2人の子どもとともに去って行った。養育費も十分に渡さず、まさか自分から子どもに会えるはずもない。もう何年も子どもには会っていない。もともとよくできた妻だったので、通訳の仕事をしながら子どもを育て、今は3人ともアメリカに住んでいるようだ。

あのころ、妻から見放されたあと、すべてと縁を切って、どこか新天地で新しく始めたい、という思いも大きかった。

今のタイ人の妻とは20年来になり、何かと心配してくれる。タイ中央銀行勤務だから、1ヵ月10万バーツほどの給料があり、今は食べさせてもらっている状態だ。もちろん、以前は、自分が稼いで、タイ人の妻を養っていた時も長かった。

5年前に脳梗塞となり、その障害が少し残っている。3年前に大腸がんの手術もした。高血圧、痛風、じん不全、胆石などを抱えていて、いつあの世に行ってもおかしくない。だから別に物欲もないし、ガツガツすることもない。ただおだやかに静かに日々を楽しんでいけたらと思うだけだ。

2013年10月20日 タイ自由ランド掲載

 

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