【サムライ女子はつらいよバンコク】第1話 前世の記憶
バンコクの喧騒が、本能寺瑠奈の耳を刺激した。アスファルトから立ち上る熱気が、彼女の肌を焦がす。スクンビットの路上で、瑠奈は立ち尽くしていた。
「はぁ…もう3ヶ月か」
瑠奈は深いため息をついた。彼女がタイ語の勉強のためにバンコクに来てから、ちょうど3ヶ月が経っていた。19歳のZ世代、大学1年生の彼女は、「とりあえず海外に出てみよう」という軽いノリで、タイを選んだ。しかし、現実は甘くなかった。
タイ語の習得は思ったより難しく、バンコクの猛暑と喧騒は彼女の神経を摩耗させていた。そして何より、タイ料理が口に合わなかった。
「もう、日本食が恋しい…」
そう呟きながら歩いていると、路上の屋台が目に入った。カラフルな野菜や果物が山積みになっている。その中でも特に目を引いたのは、大きなすり鉢で作られている料理だった。
「あれ、なんだろう?」
好奇心に駆られて屋台に近づく瑠奈。屋台のおばちゃんが、にこやかに彼女に話しかけてきた。
「ソムタム食べる?美味しいよ!」
タイ語と英語が混ざった言葉に、瑠奈は少し戸惑いながらも頷いた。
「はい、お願いします」
おばちゃんは手際よく材料を刻み、すり鉢に入れていく。ニンニク、唐辛子、ライム、ナンプラー…次々と材料が加えられていく。最後にパパイヤの千切りを加え、大きな木の棒でグイグイとすりつぶしていく。
その光景を見ていると、瑠奈の胃が少しキュッと縮む思いがした。でも、せっかくタイに来たんだから、本場の味を試さなきゃ。そう自分に言い聞かせ、完成したソムタムを受け取った。
「いただきます…」
恐る恐る一口。
そして、瑠奈の顔が見る見る歪んでいった。
「う、うげぇっ!」
思わず声が出てしまう。酸っぱい!辛い!しょっぱい!複雑な味が口の中で暴れまわる。
「なに、これ!? まずっ!」
その言葉を聞いた瞬間、おばちゃんの顔が一変した。
「何だって?」
にこやかだった表情が一気に険しくなる。瑠奈は慌てて取り繕おうとしたが、後の祭りだった。
「あ、いや、その…」
「私のソムタムがまずいって言ったの?」
おばちゃんの声が徐々に大きくなっていく。周りの人々が好奇の目で二人を見つめ始めた。
「そんなつもりじゃ…」
「あんた、タイ料理をバカにしてるの?」
瑠奈は必死に弁解しようとしたが、言葉が出てこない。3ヶ月のタイ語学習では、こんな修羅場に対応できるほどの語学力は身についていなかった。
「ち、違います! タイ料理は…その…」
「タイ料理がなんだって?」
おばちゃんの目が怒りで燃えている。瑠奈は後ずさりしながら、何とか謝罪の言葉を絞り出そうとした。
「す、すみません…私が悪かったです…」
しかし、その言葉はおばちゃんの怒りを鎮めるどころか、さらに煽る結果となった。
「謝れば何でも許されると思ってるの? タイ人をなめるんじゃないわよ!」
そう叫ぶと、おばちゃんは手にしていたソムタムを作るための木の棒を振り上げた。瑠奈は思わず目を閉じる。
「やめ…」
言葉を最後まで発する前に、鈍い音と共に激痛が頭を襲った。
意識が遠のいていく。
瑠奈の頭の中で、様々な映像が走馬灯のように駆け巡る。幼少期の思い出、家族との団欒、学生時代の友人たち…そして、突如として見知らぬ光景が浮かび上がった。
荒々しい海、揺れる船上、刀を構える侍たち。
そして、一人の男の姿。
「おらぁ、山田長政ってんだ! 覚えておけ!」
その声が、瑠奈の意識を完全に闇の中へと引きずり込んだ。
***
「…奈さん?瑠奈さん?」
かすかに聞こえる声に、瑠奈はゆっくりと目を開けた。
真っ白な天井。消毒液の匂い。そして、優しげな顔をした看護師。
「あ、よかった。意識が戻りましたね」
瑠奈は周囲を見回した。どうやら病院のベッドに横たわっているようだ。
「ここは…?」
「バムルンラード国際病院です。屋台で喧嘩になって気絶したそうですね。幸い、大きな怪我はありませんでした」
看護師の説明を聞きながら、瑠奈は徐々に記憶を取り戻していく。ソムタム、おばちゃんとの口論、そして…
「あの、私…変なこと言ってませんでした?」
看護師は首を傾げた。
「変なこと?特には…ああ、でも救急車の中で『俺は山田長政だ』とか叫んでいたそうですよ。きっと打撲の影響でしょう」
瑠奈は愕然とした。山田長政?なぜ自分がそんな名前を?
そして、その瞬間だった。
頭の中で、見知らぬ記憶が洪水のように押し寄せてきた。
戦国時代の日本。荒波を越えて東南アジアへ。アユタヤでの栄華と没落。
そして、山田長政としての生涯。
「ちょ、ちょっと待って!」
瑠奈は慌てて起き上がろうとしたが、めまいがして再びベッドに倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?じっとしていてください」
看護師が慌てて駆け寄るが、瑠奈の混乱は収まらない。
なぜ自分の中に、400年以上前に生きた武将の記憶があるのか?しかも、性別も違う人物の…
「私…私は誰なんだ?」
瑠奈の呟きに、看護師は心配そうな顔をした。
「本能寺瑠奈さんですよ。19歳の日本人留学生です」
そう、瑠奈は自分が誰なのかは分かっている。でも、同時に山田長政でもあるような…そんな不思議な感覚に襲われていた。
「ちょっと…お水もらえますか?」
看護師が水を持ってくる間、瑠奈は必死に状況を整理しようとした。
自分は本能寺瑠奈。19歳。日本の大学生で、タイ語を学ぶためにバンコクに来ている。
そこまでは間違いない。
でも、なぜか山田長政の記憶も持っている。
しかも、その記憶は驚くほど鮮明だ。
アユタヤでの日々、戦での武勲、政治的駆け引き…まるで自分自身の経験のように感じられる。
「はい、お水です」
看護師が戻ってきて、コップを差し出す。瑠奈はそれを受け取りながら、ふと看護師の顔をじっと見た。
「あの…失礼かもしれませんが、ナーイ・カンチャナーパットですか?」
その瞬間、瑠奈は自分の口から出た言葉に驚いた。ナーイ・カンチャナーパット?そんな名前、聞いたこともない。なのに、なぜか口をついて出てきた。
看護師は目を丸くした。
「え?そ、そうですけど…どうして分かったんですか?」
瑠奈自身、答えが分からなかった。ただ、山田長政の記憶の中に、その名前があったのだ。アユタヤ王朝時代の高官の名前として。
「あ、いえ…なんとなく」
瑠奈は慌てて誤魔化した。状況がますます混沌としてきている。
看護師は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及せずに病室を出て行った。
一人になった瑠奈は、深く息を吐いた。
「落ち着け…落ち着くんだ、瑠奈」
自分に言い聞かせるように呟く。しかし、その声は少し低く、力強かった。まるで…山田長政のように。
「くっ…」
瑠奈は頭を抱えた。自分の中で、瑠奈と長政の人格が混ざり合っているような感覚。でも、どちらも確かに「自分」なのだ。
「私は…私たちは…一体何者なんだ?」
問いかけに対する答えはない。ただ、窓の外ではバンコクの喧騒が相変わらず続いていた。
瑠奈はslowlyベッドから降り、窓際に歩み寄った。そこには、現代のバンコクの景色が広がっている。高層ビル、渋滞する車、行き交う人々。
その光景を見ながら、瑠奈の中で山田長政の記憶が蘇る。
400年前、この地はどんな様子だったのか。アユタヤの栄華、異国の地で奮闘する日本人…全てがvividに思い出される。
「俺は…いや、私は…ここで何をすべきなんだ?」
瑠奈の呟きは、長政の口調と瑠奈の口調が混ざったものになっていた。
そして、ふと気づいた。
「そうか…これは、チャンスなのかもしれない」
瑠奈の目に、決意の色が宿る。
「山田長政の記憶と経験を持つ私が、現代のタイで生きるということは…」
言葉を探しながら、瑠奈は自分の手をじっと見つめた。か細い女性の手。しかし、その中に宿るのは武将の魂。
「新たな歴史を作れるってことじゃないか」
その瞬間、瑠奈の中で何かが覚醒したような感覚があった。山田長政の記憶と瑠奈の現在の姿。それらが完全に調和したのだ。
「よし、まずはタイ語をマスターしないとな」
瑠奈は微笑んだ。その表情には、19歳の少女の初々しさと、武将の凛々しさが同居していた。
「本能寺瑠奈…いや、現代の山田長政として、この国で一旗揚げてやるぜ!」
その言葉と共に、病室のドアが開いた。
「瑠奈さん、診察の時間です」
医師が入ってきたが、瑠奈の決意に満ちた表情を見て、少し驚いたような顔をした。
「あ、はい。お願いします」
瑠奈は医師に向かって深々と頭を下げた。その仕草は、まるで武士が主君に対して行うそれのようだった。
医師は首を傾げながらも、診察を始めた。
瑠奈の頭の中では、すでに次の計画が練られ始めていた。タイ語の習得、タイの歴史と文化の再学習、そして…現代のタイで自分にできることは何か。
「面白くなりそうだ…」
瑠奈の目は輝いていた。そこには、19歳の少女の好奇心と、400年の時を越えた武将の野望が同居していた。
診察が終わり、医師が部屋を出て行った後、瑠奈はゆっくりとベッドに腰掛けた。頭の中で、山田長政の記憶と自分の記憶が交錯する。
400年前、アユタヤで日本人傭兵として頭角を現した山田長政。そして現代、タイ語を学びに来た大学生の瑠奈。二つの人生が、一つの体の中で融合しようとしている。
「でも、なんでこんなことになったんだろう…」
瑠奈は首を傾げた。前世の記憶を持って生まれ変わるというのは、小説やアニメでよくある設定だ。しかし、自分がその立場になるとは思ってもみなかった。
「まさか、あのソムタムのおばちゃんの呪いか?」
冗談めかして呟いたが、瑠奈の表情はすぐに真剣なものに戻った。
「いや、それより大事なのは、これからどうするかだ」
瑠奈は深く息を吐いた。そして、ゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。
バンコクの街並みが一望できる。高層ビルが立ち並び、道路には車が溢れている。山田長政の記憶の中にあるアユタヤの風景とは、まるで別世界だ。
「400年か…随分と変わったもんだな」
瑠奈の口調が、知らず知らずのうちに山田長政のそれになっていた。
「でも、変わらないものもあるはずだ。人々の思い、この国への愛…」
瑠奈は自分の胸に手を当てた。そこには、山田長政の熱い思いが脈々と受け継がれている。
「よし、決めた!」
突如、瑠奈の目に強い光が宿った。
「私は…いや、俺は、この国に恩返しをする。400年前にできなかったことを、今度こそ成し遂げてみせる!」
その瞬間、瑠奈の中で何かが変化した。19歳の少女と400年前の武将が、完全に一つになったのだ。
「でも、まずは…」
瑠奈はベッドサイドテーブルに置かれた病院食を見つめた。
「このソムタムと和解しないとな」
微笑みながら、瑠奈はフォークを手に取った。かつての山田長政なら、こんな酸っぱくて辛い料理なんて眉をひそめただろう。でも、今の瑠奈には、この味わいが新鮮に感じられた。
「うん、案外いけるな」
一口食べて、瑠奈は頷いた。
「これも、タイを知るための第一歩か」
そう呟きながら、瑠奈は病院食を平らげた。その姿は、まるで戦に臨む武将のように凛々しかった。
数日後、瑠奈は病院を退院した。頭の打撲は軽症で、後遺症の心配もないという。
病院を出る時、瑠奈は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。皆さんの親切は、決して忘れません」
その仕草と言葉に、看護師たちは少し驚いたような表情を見せた。まるで、目の前にいるのが19歳の少女ではなく、どこか別の時代から来た人物のようだったからだ。
バンコクの街に一歩踏み出した瑠奈は、深呼吸をした。
「さて、新たな戦いの始まりだ」
瑠奈の目は、強い決意に満ちていた。これからの人生は、きっと波乱に満ちたものになるだろう。でも、それを恐れる気持ちは微塵もない。
なぜなら、彼女の中には400年の時を越えた勇気と知恵が宿っているのだから。
「本能寺瑠奈、19歳。そして、山田長政、享年49歳。二つの魂を持つ者として、この国に貢献してみせる!」
瑠奈の宣言と共に、バンコクの空に大きな雷鳴が轟いた。
まるで、天が彼女の決意を歓迎しているかのように。
(第一章 終)