第3章-7 加藤隼戦闘隊 チェンマイへの思い入れ 西野順治郎列伝 22

加藤建夫中佐を題材とした映画作品「加藤隼戦闘隊」(1944年作) 東宝

西野さんは、加藤建夫中佐について「人徳があり立派な人格者」として評価しています。

2人が会って、彼は3ヵ月後の1942年5月には38歳で戦死しています。

その後彼は、軍神として崇められ、日本国民の戦意高揚のために利用されていきます。

戦中、戦後この人を中心テーマにした映画が何本も出ています。

以下、重複になりますが、伝記の内容より紹介します。

「加藤部隊長は部下からの信望も厚く、私とは短時間の交際であったが、人格者のように見受けられた。

当時の新鋭戦闘機隼を駆(か)って多大の戦火を挙げたが、5月になってアキヤブの戦場で戦死された。(注:アキヤブという場所は不明)

この頃、海軍では戦死したハワイ攻撃の特殊潜行艇乗組員の9人の士官と、連合艦隊司令長官山本元帥を軍神として、その功を讃(たた)えて騒いでいた。これに対抗するため、陸軍でも軍神の出現を期待していた。

そして加藤部隊長を中佐から二階級特進させて、軍神とした。

更にその功を讃えるため、戦死の模様を美化し事実でない事まで報道したのである。

アキヤブでの戦死の日、加藤部隊長は敵空軍の空襲を知ったので直ちに飛び上がり、敵機3機を撃墜したが、自己機も敵弾を受けて火災を発したのでハンカチを振りながら僚機に別れを告げ、垂直に海中に突っ込んだ、と発表された。

しかし、後日私が部下の下士官から聞いた話では、事実は敵機の来襲を知って迎え撃つため飛行機に乗りエンジンを始動させている時に、敵弾を受けて戦死したとのことであった」

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ここから話が変わって、チェンマイの思い出について「自由シャムの横顔」より紹介しましょう。

1941年初めに、2つの領事館開設の話を聞いており、どちらかの領事館勤務になることを予想していました。西野さんは、既に両方の場所に訪れているので、現地の様子を知っていました。そして、同じく住むのならチェンマイを内心希望していました。

なぜならばチェンマイは、興味を有していたタイ歴史と文化の研究上絶対見逃得ない土地であり、しかも人情、風土、気候等が日本のそれに類似している点は、西野さんの心を引くに十分なものがありました。その上チェンマイはタイ第2の都で美人の産地として知られており、バンコクの人々やタイを訪れる外国人にも遊心をそそる所です。

しかし実際訪問してみて失望して帰る人が多いようです。

これについて「現実的歓楽の期待をかけ過ぎ、その実人口5万人に過ぎないこの寒村に幻滅の悲哀を感じる次第なのである」と述べ、「チェンマイの価値はその史蹟を嗅ぎ文化や人情の機微に接することによって初めて得られるのである」と断言しています。

この点タイの歴史にも興味を抱き、またその文化の研究にも手を出していた西野さんは、留学生時代に数日間チェンマイに滞在しただけでしたが、以来この地に対する執着と思い入れはいっそう深いものがあったようです。

(次回号へ続く)

2021年6月20日 タイ自由ランド掲載

著者紹介
小林 豊
1948年北海道生まれ、自称フリー作家、在タイ36年、神奈川大学卒業、小林株式会社創業者、西野順治郎氏と長年交流。