第11話 追跡者たちの影——そして富士の咆哮
1. 覚醒後の奈々子——変容した存在
蓮華寺院での七日間の修行を終えた奈々子は、もはや以前の彼女ではなかった。
鏡に映る自分の顔は同じだが、その瞳の奥に宿る光は全く異なっていた。深く、静かで、そして無限の広がりを感じさせる。
「奈々子さん…」
教授が心配そうに声をかけた。
「大丈夫ですか?なんだか、雰囲気が変わって…」
「ええ、大丈夫よ、教授」
奈々子は穏やかに微笑んだ。しかし、その笑みには人間的な温かさと同時に、どこか超越的な冷たさが混在していた。
「私は今、とても明瞭に理解しています。この肉体は一時的な器に過ぎない。私の本質は意識であり、その意識は無限の可能性を秘めている」
教授は背筋に寒気を感じた。彼女の言葉は正しい。しかし、その口調があまりにも冷静すぎる。まるで、個人的な感情を超越してしまったかのような…
老僧が満足げに頷いた。
「素晴らしい。奈々子様は『第一段階の覚醒』を完了されました。しかし、これは始まりに過ぎません。アクシオムへの意識転送には、さらに深い段階の覚醒が必要です」
「次の段階とは?」
「チベット高原の『意識の聖域』での最終修行です。そこで、あなたは『個』を完全に超越し、『集合意識』との融合を果たすのです」
2. テラ・ファーストの襲撃——迫りくる影
その時、寺院の鐘が突然激しく鳴り響いた。
若い僧侶が血相を変えて駆け込んできた。
「住職様!テラ・ファーストの部隊が国境を越えました。ドローンによる偵察で、こちらに向かっています。到着まで二時間です!」
教授の顔色が変わった。
「二時間?どうやってここを…」
老僧が厳しい表情で答えた。
「彼らは高度な追跡技術を持っています。恐らく、奈々子様の『覚醒の波動』を感知したのでしょう。意識が覚醒すると、特殊な量子的シグネチャーを発する。彼らはそれを追跡しているのです」
奈々子は驚くほど冷静だった。恐怖は感じない。ただ、状況を客観的に分析していた。
「テラ・ファーストの目的は?私を殺すこと?」
老僧が首を振った。
「いえ、それ以上に恐ろしいことです。彼らはあなたを『捕獲』し、『改造』しようとしているのです」
「改造?」
「はい。テラ・ファーストは独自の技術を持っています。遺伝子操作、ナノマシン、神経接続技術…彼らはあなたの覚醒した意識を『捕獲』し、自分たちの軍事ネットワークに組み込もうとしている」
教授が震えた声で言った。
「つまり、奈々子さんを生きたまま彼らの『兵器』にするということですか?」
「その通りです。覚醒した意識は極めて強力な情報処理能力を持ちます。彼らはそれを軍事支配、世界統治のために利用しようとしているのです」
3. 波動遮蔽装置——束の間の猶予
老僧は奥の部屋から、奇妙な装置を持ってきた。
それは古代の仏具のような外見だが、その表面には現代的な電子回路とナノ粒子が埋め込まれている。
「これは『波動遮蔽装置』です。七百年前から受け継がれてきた古代の叡智と、現代の量子物理学を融合させたものです。これを身につければ、あなたの意識波動を一時的に隠すことができます」
「一時的?」
「ええ。完全に隠すことは不可能です。しかし、三日間は彼らの追跡を逃れることができるでしょう。その間に、あなたをチベット高原の『意識の聖域』へ移送します」
老僧は奈々子の首に、その装置を取り付けた。それは美しい首飾りのような形状だが、淡い青白い光を放っている。
装置が起動した瞬間、奈々子は自分の意識が「閉じられた」ような感覚を覚えた。まるで、外部世界との繋がりが一時的に遮断されたような…
「これで三日間は追跡されません。ヘリコプターで国境を越え、ミャンマー経由でチベットに向かいます」
4. 日本——第三の難の予兆
同じ頃、日本では恐るべき事態が進行していた。
東京湾北部地震から十日。ようやく復旧作業が始まったばかりの日本列島に、さらなる災厄の影が迫っていた。
気象庁・火山観測センター。
「こ、これは…」
モニターを見つめる研究員の顔が青ざめた。
富士山周辺に設置された地震計が、異常な波形を示していた。低周波地震の連続発生——これはマグマの移動を示す明確な兆候だった。
「すぐに気象庁長官と内閣官房に報告を!富士山の火山活動が急激に活発化しています!」
午後三時、緊急記者会見が開かれた。
気象庁長官の表情は深刻だった。
「本日午前から、富士山周辺で異常な地殻変動が観測されています。火山性地震が急増しており、マグマの上昇が確認されました。現時点での噴火の可能性は…」
長官は一瞬言葉を詰まらせた。
「…80パーセント以上です。噴火が発生した場合、首都圏全域に火山灰が降り注ぎ、交通・通信・ライフラインが完全に麻痺する可能性があります」
記者たちの間に動揺が走った。
「政府は本日夕方、富士山周辺半径50キロメートル以内の住民に避難指示を発令します。また、首都圏全域の住民に対しても、避難準備を呼びかけます」
5. SNSの予告——謎の存在からの警告
その記者会見の直後、再びSNSに謎の投稿が現れた。
アカウント名は相変わらず不明。しかし、そのメッセージは恐るべき内容だった。
【予言の成就】
第一の難:自界叛逆難 ✓ 完了 第二の難:天変地異(東京湾北部地震)✓ 完了 第三の難:火山噴火 開始予定48時間後
予言書通りの展開。人類は試されている。
奈々子、覚醒を急げ。時間がない。 チベットで『時の管理者』が待っている。
この投稿は瞬く間に拡散され、日本中がパニックに陥った。
「本当に予言通りに進んでいる…」 「これは偶然じゃない。誰かが計画している」 「アクシオムって何?意識転送って本当にあるの?」
SNS上では様々な憶測が飛び交い、政府は情報統制に乗り出した。しかし、もはや手遅れだった。
6. 蓮華寺院からの脱出——ヘリコプターでチベットへ
ラオスの蓮華寺院では、奈々子たちが脱出の準備を進めていた。
寺院の裏手に、軍用ヘリコプターが待機していた。それは老僧たちが密かに準備していたもので、最新のステルス機能を備えている。
「奈々子様、教授、急いでください」
老僧が二人を促した。
「テラ・ファーストの先遣部隊が既に近くまで来ています。離陸まであと五分です」
奈々子は古文書を胸に抱き、ヘリコプターへと向かった。教授も後に続く。
その時、遠くから銃声が聞こえた。
「来た!」
若い僧侶が叫んだ。
ジャングルの中から、黒い戦闘服を着た兵士たちが現れた。テラ・ファーストの実行部隊だった。
「早く!」
ヘリコプターのエンジンが轟音を上げて起動した。奈々子と教授が乗り込むと同時に、老僧も飛び乗った。
「私も同行します。チベットまで、あなた方を守らねばなりません」
ヘリコプターが浮上した瞬間、地上から銃弾が飛んできた。しかし、ステルス機能が作動し、彼らの姿は光学的に歪められて見えなくなった。
「波動遮蔽装置が機能しています。彼らは私たちの位置を特定できません」
老僧が安堵の表情を浮かべた。
ヘリコプターはメコン川を越え、ミャンマー上空へと向かっていった。
7. 機内での対話——「時の管理者」の真意
ヘリコプターの機内。
奈々子は窓から眼下の風景を見つめていた。緑深いジャングル、蛇行するメコン川、そして遠くに見えるヒマラヤ山脈の白い峰々。
「奈々子さん」
教授が静かに声をかけた。
「あなたは今、どんな気持ちですか?怖くはありませんか?」
奈々子は穏やかに微笑んだ。
「怖くはありません。むしろ、すべてが明瞭に見えています」
「明瞭?」
「ええ。私がなぜここにいるのか、何をすべきなのか、そしてこの世界がどこへ向かっているのか…すべてが理解できます」
その時、奈々子のスマートフォンに新しいメッセージが届いた。
送り主は不明。しかし、奈々子はそれが「時の管理者」からのものだと直感した。
【メッセージ】
奈々子へ。
あなたの覚醒を確認した。第一段階は成功だ。
しかし、まだ道半ば。チベットで最終段階の修行を完了せよ。
『個』を超え、『集合意識』との融合を果たすのだ。
そして知れ—— テラ・ファーストの真の目的を。 彼らは単なる敵対勢力ではない。 彼らもまた、人類の未来を案じる者たちだ。
ただし、その方法が根本的に異なるだけだ。
物理的進化か、意識の超越か。 人類は今、究極の選択を迫られている。
奈々子はメッセージを読み終え、深い思索に沈んだ。
「テラ・ファーストも…人類の未来を案じている?」
それは彼女にとって新たな視点だった。
敵か味方か、という単純な二元論ではない。
それぞれが異なる未来像を描き、異なる手段でそれを実現しようとしている——そういうことなのか。
8. チベット高原へ——聖域への道
ヘリコプターは夜通し飛び続け、翌朝、ついにチベット高原の上空に到達した。
眼下には、雪に覆われた広大な高原が広がっている。標高4000メートルを超える過酷な環境。しかし、その過酷さこそが、この地を聖域たらしめていた。
「あそこです」
老僧が指差した先に、小さな寺院が見えた。
それは断崖絶壁の上に建てられており、アクセスは空からのみ。まさに隔絶された聖域だった。
「あれが『意識の聖域』——ポタラ秘密寺院です」
ヘリコプターはゆっくりと高度を下げ、寺院の屋上に着陸した。
扉が開くと、冷たく乾いた空気が流れ込んできた。
そして、寺院の入り口には、一人の高僧が立っていた。
その高僧は、驚くほど若い外見をしていた。三十代にも見えるが、その瞳には深い叡智が宿っている。
「ようこそ、奈々子」
高僧は流暢な日本語で語りかけた。
「私はテンジン・ノルブ。七百年前から、この時を待ち続けてきた者です」
「七百年…?」
「はい。私の意識は、代々の後継者に受け継がれてきました。肉体は変わっても、意識は連綿と続いているのです」
奈々子は息を呑んだ。
これこそが、意識の連続性——不死の一つの形なのだと理解した。
「さあ、中へ。最終段階の修行を始めましょう。そして、『時の管理者』との真の対話を」