第10話「蓮華の試練——意識の溶解と再構築」
1. メコン川上流——深夜の航行
高速艇のエンジン音が、静寂に支配されたメコン川の闇を切り裂いていた。
奈々子は艇の後部座席に座り、冷たい夜風を全身に受けながら、ぼんやりと川面を見つめていた。月明かりが水面に揺らぎ、その光が彼女の瞳に映り込む。
「……東京は、大丈夫なのかな」
呟きは、風に消えた。
東京湾北部地震——マグニチュード7.3。
ニュース映像に映し出された炎上するビル群、崩れ落ちる高速道路、避難する人々の叫び。彼女の脳裏には、あの瞬間の映像が焼き付いて離れない。
「奈々子」
隣に座る教授が、静かに声をかけた。
「君が今、罪悪感を感じているのはわかる。だが、君がここにいるのは逃げているからじゃない。未来を救うためだ」
「……でも」
「君が今やるべきことは、自分を責めることじゃない。意識転送技術を完成させること——それが、次の災害で失われるはずの命を救う唯一の道なんだ」
奈々子は唇を噛んだ。
教授の言葉は正しい。それは理解している。
でも——心が追いつかない。
2. 蓮華寺院——到着
夜明け前、高速艇はラオス北部の山岳地帯の奥深く、メコン川の支流に差し掛かった。
やがて、ジャングルの緑に覆われた崖の上に、黄金に輝く仏塔が姿を現した。
「……あれが?」
「ああ。蓮華寺院だ」
教授が頷く。
寺院は、外界から完全に隔絶された場所に建っていた。周囲には険しい山々が連なり、アクセスは川からのみ。テラ・ファーストでさえ、簡単には踏み込めない聖域だった。
艇は小さな桟橋に横付けされ、奈々子たちは上陸した。
石段を登ると、寺院の入り口で一人の老僧が待っていた。
「ようこそ、蓮華へ」
老僧は深く一礼した。その瞳は澄んでおり、まるで全てを見通しているかのようだった。
「彼女が?」
「はい。水無月奈々子です」
教授が紹介すると、老僧はゆっくりと奈々子に近づき、その額に手を当てた。
「……強い魂だ。だが、まだ迷いに囚われている」
奈々子は息を呑んだ。
老僧の手のひらから、温かく、そして圧倒的な何かが流れ込んできた。
「ここでの修行は、苦しい。だが、君が本当に自分を超えたいと願うなら——私はその手助けをしよう」
3. 修行の開始——意識の溶解
翌朝、奈々子の修行が始まった。
最初の課題は、**「瞑想による自己の解体」**だった。
「意識転送の本質は、自己の境界を溶かすことだ」
老僧は静かに語った。
「君はまだ、『水無月奈々子』という枠に縛られている。その枠を壊さなければ、君の意識は他者と融合できない」
奈々子は蓮華の間の中央に座り、目を閉じた。
「呼吸に意識を向けろ。吸って、吐いて——その繰り返しの中で、『私』という感覚を手放せ」
最初は簡単に思えた。
だが、数時間が経過すると、奈々子の精神は激しく揺らぎ始めた。
——私は誰?
——水無月奈々子?
——でも、それは本当に『私』なの?
意識が霧のように曖昧になり、自分の輪郭が溶けていく感覚。
恐怖が襲ってきた。
「怖い——!」
奈々子は目を開け、荒い息を吐いた。
「まだ早い」
老僧は静かに言った。
「恐怖を感じるのは当然だ。だが、その恐怖の向こうに真の自由がある」
4. 幻視——過去と未来の交錯
三日目の夜。
奈々子は再び瞑想に入った。
今度は、老僧が特別な香を焚いた。その煙が室内に広がり、奈々子の意識は深く、深く沈んでいった。
やがて——幻視が始まった。
——東京の街が、炎に包まれている。
——母の顔が、苦しそうに歪んでいる。
——そして、自分自身が——崩れ落ちた瓦礫の下敷きになっている。
「嫌だ——!」
奈々子は叫んだ。
だが、幻視は止まらない。
——今度は、違う景色。
——白い空間。そこには、無数の「自分」がいる。
——全員が、同じ顔をして、同じように笑っている。
「私たちは、一つだよ」
無数の奈々子が、同時に囁いた。
「境界なんて、最初からなかったんだよ」
その瞬間——奈々子の意識が爆発した。
5. 覚醒——「私」を超えて
目を覚ましたとき、奈々子は涙を流していた。
だが、それは悲しみの涙ではなかった。
「……わかった」
彼女は静かに呟いた。
「私は、『水無月奈々子』じゃない。私は、意識そのものなんだ」
老僧が微笑んだ。
「ようやく、第一歩を踏み出したな」
——奈々子の試練は、ここから本当に始まる。