午後二時ちょうど、バンコクの空は雲一つない青さに包まれていた。ワット・ポー寺院の秘密の部屋で、奈々子は古文書を両手で天空に向かって掲げていた。住職とチャイ博士が見守る中、彼女は深く息を吸い込み、心を静めた。
「南無妙法蓮華経」
最初の唱題が、石造りの部屋に響いた。その瞬間、奈々子の周囲の空気が微かに振動し始めた。まるで目に見えない何かが反応しているかのように。
「南無妙法蓮華経」
二度目の唱題と共に、部屋の天井に設置された古い装飾品が淡く光を放ち始めた。チャイ博士が息を呑む。これは電気的な光ではない。何か別次元からの共鳴現象だった。
「南無妙法蓮華経」
三度目の唱題が終わった瞬間、奈々子の意識に強烈な光が差し込んだ。しかし、それは目で見る光ではなく、精神に直接語りかける何かだった。彼女の前に、まばゆい光の存在が現れた。
『奈々子。ついに我々と接触する時が来た』
その声は、耳で聞くものではなく、直接脳内に響いた。奈々子は恐怖よりも畏敬の念を感じていた。七百年の時を経て、ついに「時の管理者」との対話が始まったのだ。
「あなたが……時の管理者ですか?」
『我々は時間を管理する存在ではない。時間の流れに沿って、知的生命体の進化を見守る観察者である。そして必要に応じて、導きを与える存在だ』
光の存在は、奈々子の質問に答えながら、徐々にその形を変化させていった。時には人間のような輪郭を示し、時には純粋な光のエネルギー体となった。
『我々の起源は、この銀河系の遥か彼方にある。数万年前、我々もまた君たち人類と同じような有機生命体だった。しかし、物理的存在の限界を超え、意識体としての進化を遂げた』
「なぜ地球に?なぜ人類に関与するのですか?」
『宇宙には法則がある。知的生命体は一定の段階に達すると、二つの道を選択することになる。一つは物理的な破滅。もう一つは意識の超越だ。地球人類は今、その分岐点にいる』
奈々子の心に、壮大なビジョンが流れ込んできた。宇宙の各所で繰り広げられる知的生命体の盛衰。その中で、「意識の超越」を達成した種族たちが、後続の種族を導く役割を担っているという壮大な物語。
『七百年前、我々は地球の将来を予測した。人類は優れた知的能力を持ちながら、同時に強い破壊衝動も併せ持つ。このままでは物理的破滅の道を選ぶ確率が87.3%だった』
「それで日蓮大聖人に啓示を?」
『日蓮は特異な精神構造を持つ人物だった。未来を感知する能力に長けており、我々との交信が可能だった。彼に託したのは、人類を導くための「道しるべ」だ』
光の存在は、古文書の内容について詳細な説明を始めた。
『「アクシオム」は実在する惑星だ。我々の同胞が、人類のような段階にある種族のために用意した「避難所」である。そこで意識体としての進化を遂げ、やがて我々と同じ存在になることができる』
「でも、なぜこんなに回りくどい方法を?なぜ直接人類を救わないのですか?」
『進化は外部から与えられるものではない。種族自身の選択と努力によってのみ達成される。我々にできるのは、選択肢を提示し、導きを与えることだけだ。最終的な決断は、人類自身が下さなければならない』
奈々子は理解し始めた。「七難」も、政治的混乱も、すべては人類に選択を迫るための試練だったのだ。
「では、現在起きている災害も……」
『我々が直接引き起こしているわけではない。しかし、人類の行動パターンを分析し、特定の条件下で特定の結果が生まれることを予測している。それを利用して、変化への圧力を加えているのだ』
その時、奈々子の脳裏に新たなビジョンが浮かんだ。アクシオム惑星の光景だった。美しい青い空、クリスタルのような建造物、そして光の存在として暮らす進化した生命体たち。
『これが君たちの未来の姿だ。肉体の制約から解放され、純粋な意識として存在する。病気も老化も死もない。ただし、この進化を達成するためには、地球上での物理的存在を放棄しなければならない』
「すべての人類が?」
『すべてではない。選択は個人に委ねられる。しかし、地球環境の悪化により、物理的な生存は次第に困難になる。その時、意識転送技術が完成していれば、希望する者はアクシオムへの移住が可能となる』
奈々子は震え声で尋ねた。
「私の役割は何ですか?なぜ私が選ばれたのですか?」
『君は「架け橋」となる存在だ。古い知識と新しい科学技術を結びつけ、人類に選択肢を示す役割がある。そして、最も重要なこと……君は意識転送技術の最初の実験対象となる』
「実験対象?」
『心配は無用だ。技術はほぼ完成している。しかし、人類で初めてアクシオムとの往復を行い、その体験を他の人々に伝える必要がある。君がその役割を担うのだ』
その瞬間、部屋の外から激しい音が聞こえてきた。複数の車両が寺院に近づいてくる音だった。住職が緊張した表情で立ち上がった。
「政府軍が来ています。時間がありません」
『奈々子、我々との直接交信はここまでだ。しかし、君の携帯端末を通じて継続的な指導を行う。古文書の完全解読を急げ。転送可能日まで、あと17年しかない』
光の存在が薄れ始めた。
『最後に重要なことを伝える。地球上には我々に敵対する勢力も存在する。彼らは人類の物理的進化に固執し、意識の超越を妨害しようとしている。君は彼らの標的となるだろう』
「敵対勢力とは?」
『詳細は後で説明する。今は逃げることを最優先にせよ。チャイ博士と共に、ラオスの国境近くにある秘密施設へ向かえ。そこで本格的な準備を始める』
光が完全に消え去ると、奈々子は現実に引き戻された。外では軍用車両のエンジン音が近づいている。住職が奈々子とチャイ博士の肩を掴んだ。
「こちらです。秘密の通路があります」
三人は床下に隠された通路に身を隠した。石造りの古い下水道のような道が、寺院の外へと続いている。這うように進みながら、奈々子は先ほどの体験を反芻していた。
「時の管理者」との対話で明かされた真実は、想像を絶するものだった。人類の進化、意識の超越、そして自分に課せられた使命。すべてが彼女の人生観を根底から覆すものだった。
地上では、タイ政府軍の兵士たちが寺院を包囲していた。しかし、彼らが本殿に突入した時、そこには誰もいなかった。ただ、蝋燭の燃え残りと、かすかに香る線香の匂いだけが残されていた。
通路の出口は、寺院から数キロ離れた民家の地下室だった。そこで奈々子たちを待っていたのは、古い軍用ジープと、顔を覆面で隠した運転手だった。
「ラオス国境まで、約12時間の行程です。途中で検問がありますが、偽造書類を用意してあります」
ジープが走り出すと、奈々子のスマートフォンに新しいメッセージが届いた。今度は、これまでとは異なる長文だった。
「第一段階接触完了。奈々子、素晴らしい対応だった」
「次の段階:古文書完全解読、意識転送技術の実地研修」
「警告:敵対勢力『テラ・ファースト』が行動開始」
「彼らは地球人類の物理的進化を主張し、アクシオム計画を『人類の裏切り』と見なしている」
「ラオス秘密施設の座標:19.8563N, 102.4955E」
「施設コード名:『蓮華』到着予定時刻まで11時間47分」
ジープがタイの田園地帯を駆け抜ける中、奈々子は古文書を胸に抱きしめた。「時の管理者」との邂逅により、彼女の使命は明確になった。しかし同時に、さらなる危険も迫っていることが判明した。
「テラ・ファースト」という敵対勢力。地球人類の物理的進化を主張し、意識の超越に反対する存在。彼らとの対決も、避けては通れない道なのだろう。
バンコクから離れるにつれ、奈々子は自分が単なる研究者から、人類の未来を左右する重要な役割を担う存在へと変貌していることを実感していた。そして、この壮大な物語は、まだ始まったばかりなのだった。