【タイの田舎の小さな家から】タイの有名なお寺を30日で学ぶ Day 3|アユタヤ王朝と寺院文化

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Day 3|アユタヤ王朝と寺院文化

〜なぜ無数の寺が建てられ、なぜ廃墟となったのか〜

アユタヤ遺跡を訪れたことがある人は、
きっとこう思ったはずです。

「お寺、多すぎない?」
「しかも、ほとんど廃墟…」

実はこの光景こそ、
アユタヤ王朝そのものの姿なのです。


アユタヤ王朝とはどんな国だったのか

アユタヤ王朝は
1351年〜1767年まで、約400年続いた大王朝。

そしてこの国を支えていた精神的な柱が
仏教でした。


なぜこれほど多くの寺が建てられたのか?

理由はとてもシンプルです。

① 王の「徳」を示すため

アユタヤの王にとって、

寺を建てる = 国を治める資格を示す

ことでした。

何かあるたびに、
新しい寺や仏塔が建てられました。


② 寺は「都市インフラ」だった

現代でいうと、

これらの役割を、
お寺がすべて担っていたのです。

そのため、
人が集まる場所には必ず寺がありました。


③ 仏塔は「王の墓」でもあった

アユタヤの大きな仏塔(チェディ)は、

の遺骨を納める場所でもありました。

だから王朝が長く続くほど、
仏塔は増え続けたのです。


なぜ今、廃墟として残っているのか?

これほど繁栄した都が、
なぜ瓦礫の街になったのでしょうか。


ビルマ(現ミャンマー)との戦争

1767年、
アユタヤはビルマ軍の侵攻を受け、
徹底的に破壊されました。

これは単なる破壊ではなく、
国家の精神を壊す行為でもありました。


略奪の対象になった仏教美術

金・宝石で飾られた仏像や仏塔は、
真っ先に狙われました。

結果として、

が、今も静かに残っています。


なぜ修復されず「遺跡」として残ったのか?

バンコクに都が移ったあと、
アユタヤは再建されませんでした。

理由は、

そのため、
廃墟のまま保存される道が選ばれました。


廃墟の寺院が語るもの

崩れた仏塔や仏像は、
単なる観光資源ではありません。

仏教的に見れば、
アユタヤ遺跡そのものが
巨大な教えなのです。


Day3のまとめ


Tensui
次回 Day 4
「バンコク遷都と新しい寺院の時代」
なぜ新しい都には、
これほど豪華なお寺が必要だったのかを解説します。
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