
Day 3|アユタヤ王朝と寺院文化
〜なぜ無数の寺が建てられ、なぜ廃墟となったのか〜
アユタヤ遺跡を訪れたことがある人は、
きっとこう思ったはずです。
「お寺、多すぎない?」
「しかも、ほとんど廃墟…」
実はこの光景こそ、
アユタヤ王朝そのものの姿なのです。
アユタヤ王朝とはどんな国だったのか
アユタヤ王朝は
1351年〜1767年まで、約400年続いた大王朝。
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東南アジア屈指の大都市
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中国・日本・ヨーロッパと貿易
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「黄金の都」と呼ばれた繁栄
そしてこの国を支えていた精神的な柱が
仏教でした。
なぜこれほど多くの寺が建てられたのか?
理由はとてもシンプルです。
① 王の「徳」を示すため
アユタヤの王にとって、
寺を建てる = 国を治める資格を示す
ことでした。
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即位の記念
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戦勝祈願
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王族の供養
何かあるたびに、
新しい寺や仏塔が建てられました。
② 寺は「都市インフラ」だった
現代でいうと、
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学校
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病院
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行政施設
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公民館
これらの役割を、
お寺がすべて担っていたのです。
そのため、
人が集まる場所には必ず寺がありました。
③ 仏塔は「王の墓」でもあった
アユタヤの大きな仏塔(チェディ)は、
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王
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王族
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高僧
の遺骨を納める場所でもありました。
だから王朝が長く続くほど、
仏塔は増え続けたのです。
なぜ今、廃墟として残っているのか?
これほど繁栄した都が、
なぜ瓦礫の街になったのでしょうか。
ビルマ(現ミャンマー)との戦争
1767年、
アユタヤはビルマ軍の侵攻を受け、
徹底的に破壊されました。
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王宮焼失
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寺院破壊
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仏像の首が切り落とされる
これは単なる破壊ではなく、
国家の精神を壊す行為でもありました。
略奪の対象になった仏教美術
金・宝石で飾られた仏像や仏塔は、
真っ先に狙われました。
結果として、
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胴体だけ残った仏像
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首のない仏像
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崩れた仏塔
が、今も静かに残っています。
なぜ修復されず「遺跡」として残ったのか?
バンコクに都が移ったあと、
アユタヤは再建されませんでした。
理由は、
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新しい王朝の象徴はバンコク
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アユタヤは「過去の都」
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戦争の記憶を残す意味
そのため、
廃墟のまま保存される道が選ばれました。
廃墟の寺院が語るもの
崩れた仏塔や仏像は、
単なる観光資源ではありません。
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王朝の栄華
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戦争の残酷さ
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無常(すべては滅びる)
仏教的に見れば、
アユタヤ遺跡そのものが
巨大な教えなのです。
Day3のまとめ
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アユタヤ王朝は仏教国家だった
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寺院は政治・生活・信仰の中心
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戦争により徹底的に破壊された
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廃墟は「無常」を伝える存在
「バンコク遷都と新しい寺院の時代」。
なぜ新しい都には、
これほど豪華なお寺が必要だったのかを解説します。