「西野」の検索結果 87 件

未分類,西野順治郎

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... 粛させ、その期間を準備に充てさせました。 また、活発な学生運動に対しても、対策を話し合い、タイ当局にお願いする形となりました。 この過程で、西野さんの協力が不可欠であると認識され、西野さんに呼びかけが始まりました。 西野さんは、貿易不均衡の解消を目指して経済団体との協議の場を提案し ...

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... 会談の雰囲気は非常に友好的で、田中首相は学生の話を最後まで誠意を持って聴いていた。 × × × × 以上、2回に渡り田中首相の訪タイについて西野さんの著述より引用して紹介しました。 さらに、それらの内容に触れていないことがありますので、追加する形で紹介します。 一行はハードなスケジ ...

西野順治郎,未分類

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読了時間 < 1 分西野順治郎 列伝 84 生前の足跡第11章- 4 田中角栄首相のタイ訪問 (1) 王宮(エメラルド寺院)を訪問する田中首相、写真出所:時事通信 読み上げ 相手の立場を充分理解して接すれば先方もこちらを理解するようになるものである。 田中首相タイ訪問と前 ...

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読了時間 < 1 分西野順治郎 列伝 84 生前の足跡第11章- 4 田中角栄首相のタイ訪問 (1) 1974年1月来タイした田中首相と西野さん(左)後方は娘の真紀子さん 写真提供:西野順治郎 読み上げ 初めに 西野順治郎列伝の中で、田中角栄首相のタイ訪問は歴史的に記録さ ...

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読了時間 < 1 分西野順治郎列伝 83 生前の足跡第11章-3 日本とタイの関係 反日運動(3) イミグレーションが入っている政府総合庁舎(著者撮影) しかし乍ら、タイでは政変後の開放感と前掲石油問題などに拍車をかけられているインフレ・ムードのため73年末より全国至る処で山 ...

料理店,未分類,西野順治郎,ランチセット,宴会、パーティーによい店,ランチならココ!

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読了時間 < 1 分 ラーマ4世通りにかかる日タイ友好橋(著者撮影) 西野さんは、田中首相のタイ訪問2年前から、既に述べたようにJCC役員に就任しており、無役職の筆頭理事に任命されています。 この任命は70年のJCCの歴史の中で西野さんだけが経験したものでした。事実上、会頭代 ...

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読了時間 < 1 分 日タイ貿易会議の議長を務めた西野さん(1973年11月4日) 写真提供:J CC 今から50年前、タイで反日運動が起こり日本製品の不買運動が起きたことを知っている人は、だんだん少なくなって来ています。 その渦中にあって、西野さんはタイと日本の友好のために ...

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読了時間 < 1 分 生前、応接室に飾っていた自画像写真 この西野順治郎列伝シリーズも、お陰で第80回に至りました。 前回までの第10章では、国営紡績工場とタイ東レ工場の立ち上げを描きました。 西野さんは、これらのプロジェクトを成功裡に導き、社内で「不動な立場」を築き上げたよ ...

西野順治郎,未分類

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... 月5日 タイ自由ランド掲載 関連リンク ->その他タイ関連 ->タイ関連コラムの情報   Bing AIにきいてみた 西野順治郎さん 西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長でした¹。1917 ...

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読了時間 < 1 分 タイ東レ工場場開記念日にして来タイせる 東洋レーヨン森 社長(中央)タノム首相(右)訪問、(左)西野さん:写真提供 神奈川大学、同窓会宮陵会 日タイの貿易関係は年々増加しており、最近では日本からタイへの輸出額が年1億5千万ドルに達しています。 一方、輸入 ...

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読了時間 < 1 分 東レの森広三郎社長は、戦時中三井物産バンコク支店長を勤めており、東棉の香川英史社長、西野さんとも親交のあった仲でした。 なお、西野さんは戦前バンコクで森 社長と既に会っています。さらに、バンブアトン収容所では、森さんは第一、第二、第三キャンプの総代表に ...

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読了時間 < 1 分 チャットチャックにあるBOI本部(著者撮影) 初めに 西野さんが人生において輝かしい実績を残したプロジェクトに国営繊維工場の設立とタイへの誘致、立ち上げ、運営を進めたタイ東レの工場設立があります。 西野さんのタイ支店長就任は、53歳の時で、東レのプロジェ ...

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読了時間 < 1 分 タイの国立図書館で遭遇した「シャム」(著者撮影) 西野さんは、戦前大使館勤務を始めた頃この書を愛用した事でしょう。 これから、その本について紹介して行きます。 現在のように情報があふれている時代とは違って、当時情報入手は困難な時代で唯一この本のみでした。 ...

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... 影は微塵(みじん)もありません。まさに、夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡、ですね。 × × × × 終わりに このプロジェクトの成功により、西野さんは本社内で「タイに大物が存在する」と言われるようになり不動の地位を固めたようです。 この国営紡績工場建設と「東レ」の2本のプロジェクト ...

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読了時間 < 1 分 当時の同僚らと。前列左が西野さん(写真提供:吉川和夫氏) ここで、再度おさらいです。 特別円とは、戦時中にタイ駐留の日本軍がタイ政府から借りた軍費のことで、日本政府は96億円の返済を約束していました。 西野さんは、両国政府と折衝してこの内、約25億円をこ ...

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... を続け、技術移転が行われました。 同時に、ここから商権が発生して会社に利益をもたらした事は、言うまでもない事ですが…。 なお、この工場建設に西野さんの「内助の功」と言われる吉川和夫氏が活躍しました。 彼は、この工場建設の時31歳になっており、タイでの勤務が4年目になろうとしていまし ...

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... 時間 < 1 分 元国営紡績工場の正面入り口(著者撮影) さらに、プロジェクトの話に入る前に「特別円」について説明して置きましょう。 西野さんは、タイと日本の政治動向を熟知していたので、この特別円の存在も当然フォローしていました。 戦時中、タイ駐留の日本軍がタイ政府から借りた ...

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読了時間 < 1 分 初めに 西野さんのタイでの商社マンとしての大きな実績は、このプロジェクトから始まります。 すなわち、タイ国軍が運営していた国営紡績工場が老朽化していたので、それを日本からの最新設備を導入して最新の繊維工場に立ち上げ、その結果、この実績が評価され社長賞を ...

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読了時間 < 1 分   ラオスのビエンチャンにある凱旋門(著者撮影) この時、西野さんは支店長代理に任命され、輸出担当以外に支店長の補佐役も務めました。 1959年に内地の穀肥油量課長の席が開くので、帰国しないかとの話が本社から来ましたが、その時の宇敷正章支店 ...

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... このような昼間お得意さん回り、夕方本社報告の状態が1年ほど続きましたが、1952年暮れより米受け渡し担当者として松村仁さんが着任したので、西野さんは米以外の全ての商品を受け持つ事になりました。   1953年初めより、サラデーン(ドゥシットタニー・ホテルの裏)に独立家屋 ...

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... り、バンコクにも既に数社の派遣員が来ていました。 東棉も繊維部門出身の管輝雄氏(戦時中バンコク支店勤務)が、6ヵ月前から駐在していましたが、西野さんが赴任すると交代で帰国しました。 以上のような貿易再開の機運の中、1952年(昭和27年)3月、西野さんは(35歳)タイ駐在員として長 ...

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... で日本経済をリードしました。 ところで、東洋綿花の渉外部の任務は、官庁やバイヤーとの渉外事務を担当する部門でしたが、この間に一度だけ、しかも西野さんにとって最初の貿易事務を担当し、その存在を高めた話を紹介しましょう。 それは当時、姫路商工会議所会頭であった、龍田紡績の龍田社長から香 ...

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... 戦後の商社には充分な海外要員が育っていなかったため、多くの外務、通産省から公務員が民間商社に入り海外に出て行くケースが出ていました。 そして西野さんへも、通産省時代多くの商社から、海外要員として参加の勧誘がありました。 中でも、第一物産(後に合併して三井物産となる)の新関八洲太郎( ...

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読了時間 < 1 分 新潮文庫から出版されている白洲次郎さんの著作 チェンマイに住んでいる友達がいますが、その彼と西野さんの話題の際、白洲次郎さんの名前が出て来ました。 その時、白洲次郎と聞いて著者は「あぁー彼(白洲次郎)のことは本で読んだことがある」と応じました。 白洲 ...

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読了時間 < 1 分 西野さんが最も気に入っていた写真 初めに タイから帰還した西野さんは、外務省に復職したものの1年後外務省から商工省(現在の経済産業省)に出向を命じられています。 それは、「片道切符」で、外務省は当時定員オーバーだったからです。 そして、商工省での勤務 ...

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... す。また、「自由シャムの横顔」のローマ字表示もあります。 これは、日本語のみならず外国人にもこの本の内容がわかるように併記したのでしょう。 西野さんが世界的な視野に立って書いたように思えます。 本「自由シャムの横顔」舟形書院(1948年)は、現在国会図書館に保存されています。 友人 ...

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読了時間 2 分 西野さんが執筆した「自由シャムの横顔」の後付け 初めに 西野さんは、生前以下4冊の本を発行しています。 「自由シャムの横顔」船形書院、1948年 「メナムの残照」角川書店(角川文庫) 1978年 「日タイ四百年史」時事通信社 1984年 「タイの大地と共に―星 ...

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読了時間 < 1 分西野さんが出向していた商工省は現在の経済産業省(フリーサイトより) 昭和22年8月、6ヵ月の研修を終え商工省調査局第一課に配属となりました。 なお、辞令は「商工事務官 商工省へ出向ヲ命ズ 渉外部外課勤務」でした。 しかし、本人はこの辞令をどの程度予測してい ...

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読了時間 < 1 分   西野さんらが研修旅行で訪れた清水寺(著者撮影) 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 × × × × × × × 繰り返しますが、1946年8月単身で上京し、帰国報告のため外務省に登庁した西野さんは、幸運にも外務次官、寺 ...

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... 、現在も残っており、悪しき慣例になっていますねー。 著者は10年間役所の飯を食っていましたので、その実情がわかる、というものです。 この点、西野さんは、著者同様に役所生活に向いていなかったのかもしれません。 生活面では、これまでは食糧豊富なタイで、軟禁中といえでも家庭の使用人に恵ま ...

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読了時間 < 1 分 西野さんが入所した現在の外務省研修所(出展) タイからの引き上げで西野さん達のグループが乗船したのは、第一陣でした。 なお、第二陣、第三陣と続き、第三陣が1946年11月23日長崎の佐世保に入港し、最後のタイからの帰還組となりました。 × × × × ...

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... うこそ!HPより)   戦争に敗れたので、大使館員といえども民間人と共に引き上げて来たのです。 この時、仮に特権があったとしても、西野さんはそれを利用しなかったでしょう。 西野さんは、いつでも特権を乱用する人ではなかったのです。 ここでも、「自ら計らわず」の信念を貫いたよ ...

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読了時間 < 1 分 1991年7月15日、バンコク日本人学校校舎増設記念に母校を訪れた浅丘ルリ子さんと西野順治郎さん(西野さんの著書より) バンブアトン収容所を語る時、微笑ましい話があります。 それは 、6歳になる浅丘ルリ子さんが、収容所で収容されて過ごしていたことです。 ...

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読了時間 < 1 分 バンブアトン収容所のスケッチ(提供:日本人会) この間、西野さんと鶴見清彦官補(後にジュネーブ国際機関大使)だけは、タイ官憲や在留邦人との連絡のため収容所に入らず、外出を許可されていました。 バンブアトン収容所へも、視察、慰問を兼ねて何回か訪問しました ...

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... 役割を担っていた)により、9月17日午前12時から外出禁止、自宅軟禁となり10月初めにバンブアトン収容所に移送されました。 × × × × 西野さんが書いた様子は以下の通りです。 「バンブアトンキャンプに収容された頃は、ちょうど雨季の最中であり、その年は例年より降水量が多かったので ...

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... 者追悼式」として政府主催で毎年8月15日日本武道館にて行われています。 × × × × × × × 著者からのお礼 2年前からこのシリーズ「西野順治郎列伝」を開始して、お陰さまで第52回目をお届けする事が出来ました。 今回を持ちまして、戦前編を終了いたします。読者の皆さん、毎回愛読 ...

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読了時間 < 1 分 旧日本大使館跡、現在はインドネシア大使館(著者撮影) 終戦当日の様子について、西野さんは詳細に記述していますので以下紹介します。 × × × ペッブリー通りの日本大使館官邸では、裏の広い庭に日本人会から連絡を受けた数百人の在留邦人が集まっていました。 ...

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読了時間 < 1 分 中央がサーイユット氏本人、後列中央が飯田さん(写真提供) 陸軍大佐、辻政信の話 また彼(西野)の記憶では、タイに駐在していた陸軍大佐の辻政信は「右翼」の人物で、タイの占領や自由タイを逮捕するように大使館に申し出ることもありましたが、1945年8月に日本 ...

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... 後カセサート大学の要塞に移動し、1943年日本の司令部部隊との会議に参加することになりました。 (著者注:この会議の席上、サーイユット大将は西野さんの存在を認識していた) × × × × 1938年から彼はタイに来て、当時21歳の彼はワシラーウット学校でタイ語を学び、タマサート大学 ...

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読了時間 < 1 分 サーイユット大将が書いた本の表紙 初めに サーイユット・カートポン大将が西野順治郎さんについて、取り上げている書物が見つかりましたので紹介します。 タイ国陸軍司令官を務めた彼は、現在99歳で戦時中に西野さんの存在を認めていたという話で、その内容を以下順 ...

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読了時間 < 1 分 終戦直後、移送されるまで列車を待つ日本軍兵士 なお、大使館は9月11日付けで閉鎖、14日より軟禁されましたが、西野さんともう一人の大使館員は窓口要員として外出が許されていました。 × × × × × × × × × × × × 中村中将が残した辞世の句 ...

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読了時間 < 1 分 日本軍が駐留したルンピニー公園 初めに 今回、西野順治郎氏と浜田中(ひとし)中将、第39軍参謀兼タイ国日本大使館附武官について取り上げます。 戦時中のタイに於いて、浜田中将より中村明人(あけと)タイ国駐屯軍司令官の方が有名です。 なぜなら、既に書いたこ ...

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... 基づくものであったが、タイ政府は通告が遅いと不快感を示しました。これに対して山本大使は突然の決定であった、と弁明しました。もちろん、この場に西野さんも同席していました。 15日山本大使は、タイの戦争協力に対する謝意を伝える口上書を渡しました。 終戦当日の玉音放送の様子については、追 ...

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... 手により東京芝の増上寺境内(けいだい)に建てられ、2,000人全員の名前が刻まれている。 × × × 著者からの挨拶 読者の皆さんへ いつも西野順治郎列伝をご愛読いただきありがとうございます。 まもなく、この連載も2年が過ぎようとしています。 この間、取材に応じて頂いた協力者に対し ...

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読了時間 < 1 分 1945年4月1日に撃沈された阿波丸 今回から2回にわたり、西野さん家族が阿波丸に乗船しなかったため、災難に合わなかったという出来事を西野さんの書物より紹介します。 × × × 民間の所有する商船は船舶運営会の指揮下に置かれ運用に供されていた。 このた ...

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読了時間 < 1 分 日本郵船貨客船・阿波丸(1943年建造)のイラスト 著者は西野順治郎さんと長い交流の中で、阿波丸のことを何度か話題として聞いたことがあります。 それだけ関心のある話として脳裏にとどまっていて、他の人に話さずにはおれなかったからでしょう。 戦争中の体験と ...

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... 1 分   冨田竹二郎先生の著作は現在も日タイの架け橋となっている 冨田先生は大学でタイ語を教えていた頃、学生に対して「タイには西野順治郎という元在タイ日本大使館員で、現在商社マンをしている人がいる」と話していました。 これは冨田先生が、西野さんの能力を認め尊敬していた ...

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... 藤郁郎氏と著者 初めに 加藤郁郎氏は、昨年の8月に肺炎で昇天しています。そのことを知ったのは最近なので、急遽追悼の意味も含めて、加藤郁郎氏と西野順治郎氏について紹介します。 それは著者が来タイした頃の話で、ゲイソントラベルの加藤郁郎氏が、西野さん、アマリングループの松田嘉久氏、サリ ...

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読了時間 < 1 分 冨田先生の代表作『タイ日辞典』 初めに 西野さんの生涯の中で、付かず離れずの関係で交流していた人に冨田竹二郎先生がいました。 2人ともタイ語を学ぶためタイに留学した経験があり、年齢的にもほぼ同じでさらに関西出身と言う共通の同郷意識もあり交流していたので ...

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読了時間 < 1 分 チェンマイからメーホンソーンへ通じる鉄橋は今も残る(著者撮影) 初めに 西野順治郎氏の列伝を連載していますが、今回は特別に戦前のチェンマイの出来事を挿入します。 話をする前に写真をご覧になって下さい。 この写真は旧日本軍がミャンマーに進出するためにチェ ...

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... < 1 分 終戦後に捕虜収容所へ移送されるのを待つ日本兵 出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons) (西野さんが褒めたたえた内容の続き) また外交官の2枚舌として以下の通り紹介されています。 「坪上大使の場合もそうである。何回となくシャム政府に ...

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読了時間 < 1 分 坪上 貞二大使 出典:wikidata 戦前の在タイ日本大使館に勤務していた頃の話です。 西野さんは、尊敬できる大使として坪上貞二(ていじ)大使を挙げています。 このことについては、昭和23年に書かれた「自由シャムの横顔」の中で「誠実な人、坪上 ...

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... 虜収容所への移動を待つ日本兵 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) 新年おめでとうございます。今年初回の西野順治郎列伝です。 今年は、今後戦前の日本大使館勤務に続き、終戦、日本への引き上げ、商工省勤務、そしてトーメン入社へと、話が進展して行きます ...

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... 泰麺鉄道については、既に3回連載しましたが著者として心残りの感があるので、さらにカンチャナブリー慰霊碑について書き加えて見ました。 著者と西野さんとの会話の中で、カンチャナブリーの話に及んだ時、「旧日本軍が奴隷を虐待したような博物館があり事実と異なる」という不満の言葉を発していた ...

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読了時間 < 1 分 「花屋」の2代目店主・綿貫 孝さん(右)と著者 花屋さんと西野順治郎さんのこと 戦前のタイを語る時、日本料理店「花屋」を抜きに語れないようです。 この店は、当時唯一の日本食で、日本人の間で情報交換の場になっていたと想像するからです。 もちろん西野さんも ...

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読了時間 < 1 分 西野さんが通ったニューロードにある中央郵便局(著者撮影) 金子豊治氏と西野さん 西野さんの人生を大きく左右した人物として、金子豊治という人がいます。 既に書いたように、西野さんの奥さん、光枝さんの父に当たります。 わずかな資料しか存在しないので推測も含 ...

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読了時間 < 1 分 見合いの場所はバンコク最古の日本料理店「花屋」(撮影:著者) 西野さんは1942年(昭和17年8月)25歳の時に光枝さんと結婚しています。 その結婚について、以下想像、推察も含めて紹介しましょう。 × × × × × × × × × × × × × × ...

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読了時間 < 1 分 トムヤンティ女史とツーショット(著者撮影) 今回はトムヤンティ女史を追悼して柘植隆治さんの訪問記を紹介します。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 2020年9月15日 朝4時30分起床 会社生活から ...

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... 1 分 現在も使われているアルヒル桟道橋【タムクラセ―桟道橋】(タイ政府観光庁のホームページより) 前回に続き泰麺鉄道の話ですが、今回は西野さんの著書より「泰麺鉄道建設の手記」を 紹介します。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 「太平洋 ...

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読了時間 < 1 分 戦前泰麺鉄道(たいめんてつどう) 西野さんは、戦前泰麺鉄道(たいめんてつどう)建設工事の視察のため、カンチャナブリーに上司と同行しています。 このことは、同じ出身大学の先輩の滝沢義勝(76歳)さんが、西野さんから聞いた話として私に語ってくれました。 ...

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... 81柱の英霊の遺骨が収集されました。 そして2月6日午後2時より、日本国大使館講堂において追悼式が行われました。 この追悼式には、人見大使、西野日本人会長らまた現地からも多数参列しました。 その席上、西野会長から追悼文が読み上げられました。 以下、一部を抜粋して紹介します。 この中 ...

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... がら、この作戦は無謀な作戦の例として後日語られることになります。 どの位の将兵がクンユアムルートで退却してきたのか確かな数字はありませんが、西野さんは約7500名という数字をあげていますので、その数字を採用しましょう。 タイ政府は、退却して来た日本軍に対して、手厚くもてなすよう指示 ...

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読了時間 < 1 分 チェンマイで印刷されたルピー(インド紙幣):著者撮影 初めに西野さんの伝記を執筆していますが、ある時お孫さんに当たる西野輝泰さんから次の通りメールが送られて来ました。 「昔チェンマイにある歴史記念館か博物館のようなところへ、一緒に行った ...

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読了時間 < 1 分 かつて日本軍本部があったチェンマイ市内のミンサーン寺入口:著者撮影 以下の内容は、チェンマイでの出来事なので「自由シャムの横顔」より引用して紹介します。 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・― 194 ...

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... した。 この理由は言いがかりのようで、実は金銭の寄付を求めるのが本音のように思われ、しかも、憲兵の責任者は将校でなく曹長(下士官)でした。 西野さんは、その憲兵の曹長に「タイは同盟国で日本軍は平和進駐をさせて貰っている故、タイ人を逮捕できない」と言いましたが、曹長は釈放しようとしま ...

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読了時間 < 1 分 加藤建夫中佐を題材とした映画作品「加藤隼戦闘隊」(1944年作) 東宝 西野さんは、加藤建夫中佐について「人徳があり立派な人格者」として評価しています。 2人が会って、彼は3ヵ月後の1942年5月には38歳で戦死しています。 その後彼は、軍神として崇めら ...

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読了時間 < 1 分チェンマイ、ドーイステープ寺(著者撮影) 1941年8月、西野さんはサイゴンでチェンマイ勤務の辞令を受け取り、同9月に原田忠一郎領事と共に同地に赴任しました。 しかし、原田領事は11月初めから病気療養のため、バンコクに出たままであったので、西野さんは領事 ...

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読了時間 < 1 分 ソイ33/1を入ってすぐ左にある東京メガネ 冒頭からお詫びです。今回西野さんの記事はチェンマイの話に進む、と予告しましたが、都合で特別編(2)を組むことになりました。読者の皆様、了解お願いします 東京メガネ、徳力勝利(55)さんに取材しました(5 ...

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... ーム首相兼国防大臣)は、ルアン・プロームヨーティ国防副大臣一行を日本に派遣しました。 バンコク丸で渡日した一行が神戸入港の直前になって、西野さんが通訳のため急遽一時帰国を命ぜられました。開通したばかりの大日本航空会社の日タイ定期便「乃木号」で9月14日ドンムアン空港を経ち、ハノ ...

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... た。これは、勤務に慣れるためのいわゆるインターンシップのようなものでした。 なお、タマサート大学法学部は翌年3月までに卒業資格を得ています。西野さんは、「弁護士の資格を持っている」と話してくれたことがあります。 ただし、「法廷内での弁護は外国人なので、立てない」と言っていました。 ...

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... ク到着の前日、電報にて知らせています。 7月24日昼過ぎ、国際列車がバンコク中央駅に到着した時には、数名の公使館員が出迎えてくれています。 西野さんは、定刻通りに到着したことに驚いていました。 夕方から、館員一同出席のもと中華街で支那料理のご馳走を受けています。 当時のバンコクの様 ...

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読了時間 < 1 分1937年7月、榛名丸にて初めてタイへ。後列左端が西野さん なお、榛名丸での船内生活について、以下の通り想い出を残しています。 「ローマに行く同期入省の下村 清君(後にイタリア大使)を始め、ベルギーに居られた来栖(くるす)三郎大使の長男、良君(当時横浜高 ...

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読了時間 < 1 分大阪・難波にある老舗百貨店、高島屋 西野さんがタイへ出発した時は、弱冠20歳でした。 これから、バンコク留学の途に向かう話を進めましょう。 出発前の準備 東海道本線で神戸に向かう車内での話です。 特高警察が見回りに来て西野さんに職務質問しました。 そ ...

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... 分2000年代前半のサイアムジャスコ この紙面での連載で、飛び入り記事で著者がお世話になった話を書いてみました。 登場人物は、中村 薫氏で西野さんと同じトーメンの社員でした。 遡ること約35年前サイアムジャスコ(現在のイオングループ)が海外に進出する際、社内に適当な人材が見つから ...

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... です。 しかし、後者は受験資格に制限がない時代でした。 高等文官試験は現在の「国家公務員試験総合職試験」に相当します。 そこで、西野さんはまず留学生試験のカテゴリーに挑戦した、と書かれています。 試験は、両者とも語学と国際法が重視されていたので、これらの科目を重点的 ...

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読了時間 < 1 分 梯2章 3.西野順治郎氏の学生生活 西野順治郎列伝 ⑫   翌年3月の春休みに、朝比奈宗源師の紹介状を受け取り、興津清見寺(静岡県静岡市)に古川大航を訪ね.wav 学生生活 翌年3月の春休みに、朝比奈宗源師の紹介状を受け取り、興津清 ...

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読了時間 < 1 分在りし日の神奈川大学学長、米田吉盛(神奈川大学提供) 今回は西野さんが専門学校で学んだ様子や大学創業者米田吉盛先生のプロフィールについて若干紹介したい。 当時の横浜専門学校(現在の神奈川大学)は創立(昭和4年創立)後、日が浅く新興の気分に溢れてい ...

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読了時間 < 1 分 西野さんが入学した頃の横浜専門学校(神奈川大学提供) 横浜専門学校から外務省へ 横浜専門学校入学の話の前に、海外雄飛の話をしましょう。 西野さんは、少年時代に愛読した少年倶楽部の海外に関する小説、特に南洋一郎という南方(注:当時はこの方面を南洋 ...

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... タビュー この本を書かれたのは、ウィモン女史(ペンネーム:トムヤンティ)。彼女はこのクーカム以外にも様々な小説を書いたタイの著名作家。 「西野さんが翻訳されているので、その経緯について話を聞きたい」とお願いして、「西野さんが大好きだから」とのことで承諾を得て、貴重なお時間をいただ ...

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... が合わさって、小説に反映され小説を読んだタイ人が日本人に好意を持つようになった理由の一つになったのでしょう。 日本人の自縛とそこからの解放 西野さんや小説の話からそれますが、女史は戦時中の英雄、日本兵、戦争について話をすると「日本人は黙り込んでしまうのが残念で、むろん戦争は良くない ...

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読了時間 < 1 分「メナムの残照」著者・トムヤンティ女史と西野さん(1978年) 始めに 前回生い立ちの中学生時代までを描きましたが、今回から3回にわたり西野さんと「メナムの残照」の著者トムヤンティ女史について描いて見ましょう。 西野さんの紹介 西野さんは、旧学制 ...

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読了時間 < 1 分西野さんが幼年期に遊んだ金熊寺(きんゆうじ)の現在の写真:著者撮影 父親は西野さんに対してもお兄さんと同様、師範学校(注:教師になるための専門学校)への進学を望んでいましたが、次男であるため旧制高等学校への受験が許されました。 そこで西野さんは中学4 ...

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読了時間 < 1 分東信達尋常小学校卒業(昭和5年)前から2列目、右から2人目が西野順治郎氏 村の小学校は、西野さんの生家から約300メートル南の山麓にあり部落と同名寺院「金熊寺」と信達神社に隣接し、寺や神社の境内が学校の運動場でした。 全校児童数は130名(現在でもほと ...

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... 帰郷して農業に従事しました。身をもって体験した戦争の苦痛を、子供たちにさせたくないと強く考えていたようです。 特に兄瞭太郎を尊敬していた西野さんは、自慢の兄が小学校の教師に至る話を次の通り書いています。 「兄は、旧岸和田藩主岡子爵からの特別賞を受けて、府立岸和田中学校を主席で卒 ...

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読了時間 < 1 分西野氏の生家の前で、義理の姉と 母親のキミさんは祖父母秀吉、ヨシの間に生まれた一人娘で、父利一郎は同じ部落の矢野家から来た婿で、大阪冬の陣で討死した矢野家泉守正嗣の子孫です。 歴史的な話になってしまいますが、矢野和泉守正嗣は、豊臣家を救うため真田幸村 ...

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読了時間 < 1 分西野氏が6歳のころ、自宅で この覚え書きでは、小生が西野さんと接した中で知ったこと、自叙伝にも書かれた功績を書き留めつつ、余談も交えて当時の様子が見えるような内容になれれば良いと思います。彼の功績を紹介するに当たり、西野さんのことを知らない方も多いと思い ...

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読了時間 < 1 分 「西野順治郎氏覚え書き」を次号より掲載いたします。同氏の生誕から逝去(せいきょ)まで、長期間の連載を予定しています。 まず、西野順治郎氏ついては、ご存じない方がおられますので略歴を紹介しましょう。 大正6年大阪府生まれで、横浜専門学校を卒業後、外 ...