【タイの田舎の小さな家から】立正アクシオム論 —最後の鎖国と人類転生計画—第5話 不審な影

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奈々子は慎重にドアのチェーンを外し、二人の政府関係者を室内に招き入れた。男性たちは丁寧に靴を脱ぎ、名刺を交換しながら自己紹介をした。年上の方は外務省アジア大洋州局の課長、若い方は内閣情報調査室の分析官だった。

「佐藤様、突然の訪問で申し訳ございません。我々は『立正アクシオム現象』と呼ばれる一連の事態について調査を行っております。この現象の発端となった古文書をお持ちであると伺いましたが……」

課長の丁寧な物腰とは裏腹に、その視線は鋭く奈々子を観察していた。分析官の方は、さりげなく室内の様子を把握しようとしている。奈々子は長年の学者生活で培った洞察力で、彼らが単なる調査官ではないことを感じ取った。

「どのような調査なのでしょうか?私は研究者として、学術的な興味から古文書を調べているだけです」

奈々子の慎重な返答に、分析官が資料を取り出した。

「実は、世界中で発生している異常現象と、佐藤様が発見された古文書との間に、深い関連性があることが判明しています。これらの写真をご覧ください」

資料には、SNSで拡散された投稿のスクリーンショットが数十枚含まれていた。しかし、その中には奈々子がまだ見たことのない内容も含まれていた。

「バンコク、チャトチャック市場、骨董店。運命の出会い完了」 「佐藤奈々子、選ばれし研究者。任務開始」 「チャイ・ソムチャイ博士、協力者として認証済み」

奈々子の血の気が引いた。これらの投稿は、彼女の行動をリアルタイムで監視しているかのような内容だった。まるで、見えない誰かが彼女のすべてを把握しているかのように。

「これは……一体どういうことですか?」

「我々も困惑しています。これらの投稿は、佐藤様とチャイ博士の行動を正確に記録しているだけでなく、政府の機密情報まで含んでいるのです。投稿者の正体は依然不明ですが、極めて高度な情報収集能力を持つ組織の関与が疑われます」

その時、奈々子のスマートフォンに新しい通知が届いた。SNSアプリを開くと、そこには驚愕すべき投稿があった。

「日本政府関係者、バンコク到着。佐藤宅訪問中。会話内容:機密レベル5」 「外務省課長・田中。内調分析官・山田。真の目的:古文書回収」 「警告:政府を信頼するな。彼らもまた操られている」

奈々子は震え声で呟いた。

「田中課長……山田分析官……この投稿に書かれた名前は……」

二人の男性は顔面蒼白になった。彼らの本名が、リアルタイムでSNSに投稿されているという事実。これは単なる情報漏洩のレベルを遥かに超えていた。

「これは非常事態です。我々の行動が完全に監視されている。佐藤様、この古文書は国家の安全保障に関わる重大案件です。速やかに日本に帰国していただき、適切な保護下に置かれることをお勧めします」

しかし、奈々子は首を振った。

「申し訳ありませんが、この古文書は学術的に極めて価値の高いものです。政府に渡すわけにはいきません。私には研究者としての責任があります」

田中課長の表情が変わった。丁寧な仮面の下に隠されていた強硬な意志が表面化する。

「佐藤様、これは要請ではありません。国家機密保護法に基づく命令です。古文書の任意提出をお願いします」

緊張が室内に漂った。その時、再びスマートフォンが鳴った。今度は電話だった。発信者はチャイ博士。奈々子は急いで電話に出た。

「奈々子さん!大変です。私の研究室に謎の侵入者がありました。そして、あなたのアパートにも危険が迫っているかもしれません。すぐに避難してください!」

その瞬間、窓の外で不穏な影が動いた。奈々子は目を凝らすと、アパートの周囲に複数の人影が潜んでいることに気づいた。政府関係者だけでなく、別の勢力も動いているのだ。

「田中課長、窓の外を見てください。あなた方以外にも、このアパートを監視している者がいるようです」

田中課長は窓際に駆け寄り、カーテンの隙間から外を覗いた。その表情が一変する。

「これは……我々の部隊ではありません。山田、すぐに本部に連絡を。何者かが我々の作戦を察知している」

山田分析官が無線機を取り出そうとした時、突然室内の電気が消えた。停電ではない。誰かが意図的に電源を切ったのだ。暗闇の中で、ドアの取っ手がゆっくりと回り始めた。

「誰です?」

奈々子の問いかけに答えはなかった。しかし、ドアの向こうから複数の足音が聞こえてくる。田中課長が護身用の拳銃に手をかけたその時、奈々子のスマートフォンが光った。画面には新しいメッセージが表示されていた。

「緊急事態発生。第四勢力介入。佐藤奈々子、南側非常階段より避難せよ」 「古文書を持参。チャイ博士と合流地点:ワット・ポー寺院」 「時間的猶予:3分42秒」

奈々子は即座に決断した。古文書を胸に抱き、ベランダへ向かう。田中課長が制止しようとしたが、彼も侵入者への対応に追われていた。

「佐藤様、危険です!」

「私には研究者としての使命があります。この謎を解き明かすまで、誰にも古文書は渡しません」

奈々子はベランダから非常階段へ移り、暗闇の中を駆け下りた。後ろでは何かが激しく衝突する音が聞こえている。彼女が住んでいたアパートで、複数の勢力による争奪戦が始まっていたのだ。

路地裏に出た奈々子は、急いでタクシーを捕まえた。運転手にワット・ポー寺院への行き先を告げながら、彼女は振り返った。アパートの窓からは異様な光が漏れ、複数の影が激しく動き回っているのが見えた。

タクシーが走り出すと、奈々子のスマートフォンに最後のメッセージが届いた。

「第一段階脱出成功。しかし、これは始まりに過ぎない」 「真の敵は姿を現していない。信頼できるのはチャイ博士のみ」 「次の指示を待て。人類の未来は君の手に委ねられている」

バンコクの夜景が窓の外を流れる中、奈々子は古文書を握りしめた。彼女が単純な歴史研究だと思っていたものが、人類の運命を左右する壮大な陰謀の中心にあることを、ついに理解したのだった。

ワット・ポー寺院に向かうタクシーの中で、奈々子は自分が巻き込まれた事態の重大さを痛感していた。古代の予言、現代の技術、そして見えない存在による導き。これらすべてが、彼女を未知の運命へと押し流そうとしているのだった。