【タイの田舎の小さな家から】立正アクシオム論 —最後の鎖国と人類転生計画— 第1話 バンコクの骨董店で出会う運命

九月の午後、バンコクの空は鉛色に重く垂れ込め、湿った熱気が街全体を包んでいた。チャトチャック・ウィークエンドマーケットの迷路のような通路を歩く佐藤奈々子の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。六十七歳になった今でも、彼女の足取りは軽やかだった。元歴史学者としての探究心が、この雑踏の中でも何かを求めて彼女を導いているのだった。
バンコクに移住して三年。日本での大学教授生活を終えた奈々子にとって、この東南アジアの喧騒は新鮮な刺激だった。市場の空気は香辛料と花の匂い、そして無数の人々の営みが混じり合った独特の香りに満ちている。露店から漏れるタイ語の掛け声、バイクのエンジン音、そして遠くから聞こえてくる寺院の鐘の音が、彼女の心を穏やかにしていた。
ふと、狭い路地の奥に佇む小さな骨董店が目に留まった。看板には英語とタイ語で「古美術・経典」と書かれている。奈々子は研究者時代の習性で、そのような店を見つけると必ず立ち寄ることにしていた。歴史の断片が、思わぬ場所に眠っていることを知っていたからだ。
店内は薄暗く、古い木材の匂いが鼻をくすぐった。壁際には仏像や古い経典が並び、天井から下がる扇風機がゆっくりと回っている。店主は六十代ほどの痩せた男性で、奈々子が入ってくると穏やかな笑みを浮かべて会釈した。
「サワディーカー。何かお探しですか?」
流暢な日本語に驚きながらも、奈々子は店内を見回した。そのとき、棚の奥に置かれた一冊の古い写本が彼女の視線を捉えた。表紙は茶色く変色し、紙は時の重みで波打っている。近づいてよく見ると、そこには「立正安国論」という文字が墨で書かれていた。
「これは……」
奈々子の心臓が高鳴った。立正安国論といえば、鎌倉時代の僧・日蓮大聖人が著した代表的な書物である。彼女は専門外ながらも、日本中世史の研究で何度もこの書物に触れていた。しかし、この写本は何か違和感があった。
「これはどちらで見つけられたものですか?」
奈々子の問いに、店主は少し困ったような表情を見せた。
「実は、タイ北部のチェンマイの山奥にある古い寺院で発見されたものです。なぜ日本の経典がそこにあったのか、私にも分かりません。住職様が『縁のある方に』ということで、私に託されました」
奈々子は慎重に写本を手に取った。和紙の質感、墨の色合い、すべてが本物の古さを物語っている。ページをめくると、確かに日蓮の筆跡に似た文字が並んでいた。しかし、既存の立正安国論とは明らかに異なる部分があることに気づく。
そして、巻末近くで奈々子は息を呑んだ。そこには、これまで見たことのない文章が記されていたのだ。
「国、内より乱れ、外より侵さる。七難至りて地は裂け、海は荒れ、人は散る。されど、南方の星、アクシオムにて魂は続く。後世の人々よ、この教えを心に刻め。肉体は滅ぶとも、意識は永遠なり。アクシオムの座標は……」
文章はそこで途切れているが、続いて数列が記されていた。まるで暗号のような、しかし何らかの法則性を感じさせる数字の羅列。
奈々子の背筋に震えが走った。「アクシオム」という単語が彼女の脳裏に強く刻まれる。七十年近い人生で培った直感が、この写本が単なる偽書ではないことを告げていた。これは預言書なのではないか。そして「アクシオム」とは一体何を指しているのか。
店主が静かに声をかけた。
「その写本を見つめる先生の表情を見ていると、やはり縁があったのだと思います。住職様が『必要な方の手に渡るだろう』とおっしゃっていた通りです」
奈々子は写本を胸に抱きながら、運命の歯車が回り始めたことを感じていた。バンコクの蒸し暑い午後、小さな骨董店で彼女が手にしたのは、ただの古い書物ではない。これから始まる壮大な物語の、最初の鍵だったのである。
店を出るとき、奈々子は振り返って店主に深く頭を下げた。彼女にはまだ理解できないが、この出会いが偶然ではなく、必然であることを魂の奥底で理解していた。写本を大切にバッグにしまいながら、彼女の新たな探究が始まろうとしていた。
チャトチャック市場の喧騒の中を歩きながら、奈々子の心は既に「アクシオム」という謎の言葉に支配されていた。これから彼女が直面する真実は、人類の未来を左右する壮大なものになるだろう。しかし、その時の彼女はまだ知る由もなかった。














