西野順治郎さんの家系と母親の紹介、西野順治郎列伝 ③

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西野氏の生家の前で、義理の姉と
西野氏の生家の前で、義理の姉と

母親のキミさんは祖父母秀吉、ヨシの間に生まれた一人娘で、父利一郎は同じ部落の矢野家から来た婿で、大阪冬の陣で討死した矢野家泉守正嗣の子孫です。

歴史的な話になってしまいますが、矢野和泉守正嗣は、豊臣家を救うため真田幸村と共に紀州九度山から大阪城に入る時、二人の息子を伴っていましたが、弟の方が途中腹痛のため、この部落の床屋(注:後に説明)に預けられたため、討死を免れたのです。

西野、矢野両家とも山、畑、水田を持つ自作農で、その一部は小作人に耕作させていました。

西野家は「旧家」となっています。辞書で調べたところ、「古くから続く由緒ある家系を持つ家、公家の家格の一つ」とあります。つまり、古くから家系を持つ家柄です。

自叙伝で「西野家も床屋を務めたことがある旧家で…」と書かれていますが、「床屋」という言葉が目を引いたので辞書で「床屋を務めた」の意味を調べてみました。

これは現在のような理髪店ではなく、町内、部落内の自警の目的を持った床屋だったと推測します。床屋を行いながらも、交通の要地で道路に面した場所で通行人を見て不審な者、見知らぬ顔をチェックしていたのでしょう。このような仕事は誰にでもできそうですが、お上からの「許可」が必要だったのかと。旧家の特権かもしれませんね。

母親のキミさんは、大阪府立岸和田高等女学校(現在の泉南高等学校)第一回卒業生です。当時クラス内では、資財と優秀な成績、かつ、女に学問は不要という風潮の中で学門に対する両親の理解が必要で、数人しか女学校に進学できなかったようです。

その村から中学校、高等学校へ進学するという事は、その地域で尊敬を受け、崇められたに違いありません。卒業後、村で小学校の教師をしていましたが、当時不治の病と言われた肺結核にかかり、西野さんが3才の夏、1920年9月死去しました。母親の面影として、次のように書かれています。
「微かな記憶にあるのは死の直前であったと思うが、開き放された奥座敷の寝室に入って行った時、母は「お母ちゃんが死んだらおばあちゃんと一緒に墓参りにきてね」と言われたのに、対して「ウン」と答えたように憶えている」と。

兄弟はお姉さん、美奈保とお兄さん、瞭太郎の三人でしたが、お姉さんも肺結核のため西野さんが7才の時に若死にしました。

それ以来、西野さんと兄の瞭太郎の2人は祖母ヨシによって育てられました。その祖母ヨシさんは、優しい人だった、と書かれています。

母親とお姉さんの死別は、西野さんに自立心、独立心を与えたのではないでしょうか? (次号へ続く)

著者紹介: 小林 豊

2020年9月5日 タイ自由ランド掲載