【タイの田舎の小さな家から】立正アクシオム論 —最後の鎖国と人類転生計画— 第2話 秘文の解読開始

翌朝、バンコクの朝陽が窓から差し込む中、奈々子は昨夜からほとんど眠れずにいた。枕元に置かれた古写本が、まるで生きているかのように彼女の意識を捉えて離さなかった。コーヒーを淹れながら、彼女は決意を固める。この謎を解き明かすために、信頼できる専門家の助けが必要だった。
奈々子が真っ先に思い浮かべたのは、チュラロンコーン大学の仏教研究者、チャイ・ソムチャイ博士だった。五十代半ばのチャイ博士は、東南アジア仏教史の権威として知られ、古文書の鑑定にも定評がある。奈々子とは三年前、バンコクの学術シンポジウムで知り合い、以来、時折研究について意見を交わす仲になっていた。
午前十時、奈々子はチュラロンコーン大学のキャンパスを訪れた。緑豊かな構内は学生たちの活気に満ち、東南アジアの学術の中心地としての威厳を保っている。チャイ博士の研究室は、仏教文献学部の三階にあった。
「奈々子さん、お久しぶりです。今日はどのような用件で?」
チャイ博士は温和な笑みを浮かべながら奈々子を迎えた。彼の研究室は古い経典や研究書で埋め尽くされ、学者らしい雑然とした美しさがあった。壁には様々な言語で書かれた仏教関連の文献が並び、その中には日本語のものも多く見受けられた。
「実は、昨日とても興味深い写本を手に入れまして。チャイ博士のご意見をお聞きしたいのです」
奈々子は慎重に写本を取り出した。チャイ博士の表情が一変する。学者としての鋭い直感が、この写本の特異性を即座に感じ取ったのだった。
「これは……立正安国論ですね。しかし、何か普通ではない感じがします。どちらで入手されましたか?」
奈々子は昨日の出来事を詳しく説明した。チェンマイの山寺での発見、店主の言葉、そして写本に記された謎の文章について。チャイ博士は真剣な表情で話を聞き、時折頷きながらメモを取っていた。
「見せていただけますか?」
チャイ博士は白い手袋をはめると、写本を慎重に手に取った。ページを丁寧にめくりながら、紙質、墨の成分、文字の筆跡を専門家の目で検証していく。そして巻末の秘文に差し掛かったとき、彼の呼吸が止まった。
「奈々子さん、これは本物です。紙質は十三世紀後半のもの、墨の成分も当時のものと一致します。そして、この筆跡……」
チャイ博士は拡大鏡を取り出し、文字を詳細に観察した。
「信じられないことですが、これは日蓮大聖人の真筆の可能性が非常に高い。しかし、この巻末の文章は……」
チャイ博士の声が震えていた。七百年の時を経て発見された、日蓮の未知の文章。それがもたらす衝撃は、仏教学者としての彼の常識を覆すものだった。
「国、内より乱れ、外より侵さる。七難至りて地は裂け、海は荒れ、人は散る。されど、南方の星、アクシオムにて魂は続く。後世の人々よ、この教えを心に刻め。肉体は滅ぶとも、意識は永遠なり。アクシオムの座標は……」
チャイ博士は秘文を声に出して読み上げた。そして続く数列を指差す。
「この数列ですが、単なる暗号ではありません。これは……座標のようです。しかし、地球上のどの座標系とも一致しない。まるで……」
「まるで?」
「まるで宇宙空間の座標のようです。『南方の星、アクシオム』という表現も気になります。アクシオムという名の天体が実在するのでしょうか?」
奈々子の心臓が再び高鳴った。チャイ博士の専門的な見解が、彼女の直感を裏付けていたのだ。これは単なる宗教的な予言書ではない。何か科学的な、そして壮大な計画の一部なのではないか。
「チャイ博士、私にはこの写本が単なる歴史的発見以上の意味を持っているように思えます。現代の日本で起きている政治的混乱も、この『七難』の予言と重なって見えるのです」
「そうですね。最近の日本のニュースを見ていると、確かに『自界叛逆難』という言葉が頭に浮かびます。もしもこの予言が現実化しているとすれば……」
チャイ博士は立ち上がり、書棚から一冊の分厚い本を取り出した。
「『法華経』における七難の記述を詳しく調べてみましょう。そして、この座標についても、天文学的な観点から検証が必要です。私の知り合いにNASAで働いている研究者がいます。彼に相談してみましょうか?」
奈々子は深く頷いた。学者としての冷静さを保ちながらも、彼女の内心では確信が芽生えていた。この写本は、人類の未来に関わる重大な秘密を秘めている。そして「アクシオム」という謎の言葉が、その鍵を握っているのだ。
午後の日差しが研究室に差し込む中、二人の学者は七百年前の預言と現代科学の接点を探り始めた。バンコクの静かな午後が、人類史上最大の謎解きの始まりを告げていたのである。
研究室を後にするとき、奈々子は写本を再び胸に抱きしめた。チャイ博士との議論により、この古文書が秘める可能性がますます明確になってきた。明日からは、さらに深い調査が始まるだろう。そして、その調査が彼女を、想像を絶する真実へと導くことになるのだった。

















