【タイの田舎の小さな家から】タイの有名なお寺を30日で学ぶ Day 10 「托鉢(たくはつ)の意味」

Day 10
「托鉢(たくはつ)の意味」
なぜタイの僧侶は毎朝、裸足で街を歩くのか?
そこにある
“与える側・受け取る側”の本当の関係を解説します。
早朝のタイ。
まだ空気がひんやりしている時間、
オレンジ色の袈裟をまとった僧侶たちが、静かに街を歩きます。
手には鉢。
足元は裸足。
言葉はほとんど交わされません。
これは観光パフォーマンスではなく、
仏教の根幹にある修行――托鉢です。
■ 托鉢とは何か?
托鉢とは、
僧侶が自ら食料を生産せず、
人々から施しを受けて生きる行のこと。
タイ上座部仏教では、
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僧侶は金銭を持たない
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自分で料理をしない
-
食事は原則、午前中のみ
という厳しい戒律があります。
つまり托鉢は、
生きるための必要最低限の行為であり、
同時に修行そのものなのです。
■ なぜ「裸足」なのか?
裸足には、明確な意味があります。
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地面の熱・冷たさ・痛みをそのまま受ける
-
快適さから距離を置く
-
自分が「守られる存在」ではないと知る
これは
常に自分を低く保つための姿勢
裸足で歩くことで、僧侶は毎朝、
「自分は特別ではない」
という事実を身体で確認します。
■ なぜ“もらう側”が偉く見えないのか?
ここが、托鉢の最も誤解されやすいポイントです。
一見すると、
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僧侶=もらう人
-
市民=与える人
に見えます。
しかし仏教的には、立場は逆です。
■ 本当の主役は「与える側」
托鉢で功徳(くどく)を積むのは、
施しをする側=市民です。
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食べ物を差し出す
-
合掌して心を込める
-
見返りを求めない
この行為そのものが、
執着を手放す修行になります。
僧侶は、
人々が善行を積む「機会」を提供している存在
だからこそ、
僧侶は感謝を言いません。
受け取るだけです。
■ 僧侶にとっての托鉢
僧侶にとって托鉢は、
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選ばない
-
文句を言わない
-
多い少ないに心を動かさない
という欲を断つ訓練。
今日は豪華な食事。
明日は白米だけ。
それでも同じ心で受け取る。
そこに修行があります。
■ なぜ毎朝なのか?
托鉢は「特別な日」ではなく、毎日行われます。
なぜなら――
悟りも修行も、一日で完成しないから。
毎朝歩き、
毎朝受け取り、
毎朝手放す。
その繰り返しが、
僧侶と市民の間に静かな循環を生み出します。
■ 観光客はどう関わるべき?
もし托鉢に出会ったら、
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写真を撮る前に一呼吸
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道をふさがない
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遊び半分で食べ物を渡さない
可能なら、
心を込めて静かに手を合わせるだけでも十分です。
それも立派な「参加」です。
■ お寺が“読める”ポイント(Day 10)
托鉢を見るときは、
こう考えてみてください。
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僧侶は「もらっている」のではない
-
市民は「与えている」のではない
-
互いに、修行を支え合っている
托鉢は、
社会全体で行う瞑想のようなもの。
次回予告(Day 11)

「僧侶はなぜ笑わないのか?」
感情を抑えているのではなく、
“感情に振り回されない”という修行について解説します。
――
朝の托鉢を見たとき、
その風景が少し違って見えたら、
あなたはもう、タイ仏教が“読めています”。


















